JA1AA 庄野久男氏
No.10 関東の戦前のハム達(2)
[ラジオ少年・島さん]
戦前のアマチュア無線は若い人達が支えた。歴史的な資料となっている「宮井コールブック」の昭和7年(1932年)10月発行版を見ると、その時点のJ1(関東)エリアの個人局は63局。ほとんどが10代後半か20代である。このうち、大学、旧制高等学校、旧制中学校の学生はちょうど3分の1に当たる21名である。
学校は限られている。最も多いのが早稲田大学であり、次いで東京帝国大学、横浜高等工業などであり、その他数校である。早稲田大学では昭和6年3月に開局した島茂雄(J1EO)さんがいる。卒業後は日本放送協会に勤め、JARLの活動にも積極的に取り組み、また、アマチュア無線の発展にも貢献した。
島茂雄さん。
島さんが森本さんと知り合ったのは、東京府立第四中学時代であり大正9年か10年だったという。TYK式無線機での鳥羽-神島間の実験が成功、ドイツから第一次大戦の賠償として長波大電力施設がわが国に提供され、米国でラジオ放送開始が近づくなど、無線通信の話題が賑やかになってきた頃である。
島さん、森本さんは「無線こそ最先端技術」と考える。そして、無謀な挑戦が始まった。コヒーラ検波器を五銭ニッケル貨と一銭銅貨で、瞬滅式火花間隙を二銭銅貨とアルミの弁当箱で作った。インダクションコイルは八番鉄線とパラピン線、電鈴で、コンデンサは写真乾板のガラスと錫箔でそれぞれ作り上げ、さらに、次ぎのレベルである鉱石検波器は水道鉛管と硫黄を溶かして人工方鉛鉱を作った。すべて手製であるが、巨大なアンテナを張った割には送信は成功しなかった。
真空管時代になると真空管作りに挑む。「真空管は高い。いっそ自作しようと排気用の水銀真空ポンプを物理の教科書の図解を見ながらガラス管で作ったのは良かったが、水銀蒸気を吸い込んでいて翌朝は声がまったく潰れていた」と島さんは当時を記している。
この島さんの思い出を読んで新しい発見があった。JARL結成前のアンカバー局全員がJARLに加わったわけではなかったことである。先に掲げたリスト以外にJ1HT・竹内彦太郎(後J1CW)J1AB・内海睦吉(同J1DS)J1SS・菅沼弘(同J2PF)さんらのアンカバー局があった。さらに、前リストの中でJ1TN・中桐光彦さんが小学生であることや、J1TS・仙波猛さんは取締る側である電気試験所第五部勤務であることもわかった。
[わが国最古のアマチュア無線クラブ GRC]
その島さんは、学習院の学生にも大きな影響を与えた。戦前に活躍し戦後もJARL再発足に力を尽くし、当時学習院の生徒であった森村喬(J2KJ)さんとは従兄弟であったうえ、島さんは学習院の先輩でもあったためでもある。森村さんについては「あるアマチュアOTの人生」として別の連載がある。森村さんは学習院のハム第1号であり、その関係で友人、後輩がハムとなり一時期は学習院生や卒業生がこぞって活躍した。
原JARL会長(左)と並んだ森村さん(右)。中央後ろは井上・アイコム社長
学習院にはGRC(学習院ラジオクラブ)という組織がある。自然発生的にグループがクラブとなったらしく、正式な発足年は不明であるが、平成元年(1989年)に50周年の記念誌を発行している。それを見ると、アマチュア無線の免許制度が生まれる前後である大正10年代から昭和10年頃までの学生ラジオマニアの姿の一端がわかる。
そのいくつかを紹介すると、武田照彦(J1FR、JH1JBT)さんは、大正13、14年の頃、学習院の初等科に在学、ラジオを作りたくて、苫米地貢さんの書いた「無線電信電話機の製作法」を勉強したがわからず、母親に勧められて近所の清水さんを訪ねる。部屋一面に中波の送受信設備があるのにびっくりしたという。
その後、昭和8年、中等科4年の森村さんは、同級生の清岡久麿(後J2KQ)さん、今野信英(同J2MH)さんらと島さんを訪ねる。そこで、アマチュア無線のとりこになり「寝ても覚めてもトンツー、トンツー。教室の机に座っていてもトンツーだった」と、清岡さんは思い出を書いている。清水さんはその後ハムになった様子はなく、どういう人かわからない。
昭和9年3月、まず森村さんが免許を取得、その後に清岡さん、今野さんが続き、その指導により石川源光(J2NF)さん、安川七郎(J2HR)さん、赤津誠章(J2IT)らがハムになった。戦前、学習院生や卒業生だけで10名のハムが誕生したが、その原点は島さんといってもよい。戦後活躍した原昌三(JA1AN)JARL会長、林晃(JA1BDA)さんらも、戦前、学習院でラジオ少年になっていた。