[J5CCの思い出] 

森村さんについては連載で十分に触れているため、DXCCで84カントリー、WASで44州の達成成果だけを紹介しておく。石川さんは昭和11年6月に免許を取得したものの、団体の世話が好きな性分であったため、運用をするよりも戦前、戦中はJARL活動に取り組んでいた。また、J5CCカップで知られる堀口文雄(J5CC)さんとも交流があった。

石川さんは「彼は頻繁に私の信濃町の家を訪ねており、いよいよ戦地に行くことになった時に、私の作製したトランク入りの携帯用送受信機(終段管レイセオンTX21)を持っていった。海外でAC4CC/HC9CCとして活躍した機械である」と「Rainbow News」第5号に書いている。J5CCについての思い出は大河内正陽(J2JJ)も記している。

「J5CC堀口さんは、東京帝大の医学部学生であった。休暇に入ると鹿児島に帰って、昼夜の別なく波を出しておられた。休暇しか波を出せないというハンディキヤップにもかかわらず、私が足下にも及べなかった当時の日本のトップDXerであった。東京では完全にフェードアウト(聞こえなくなる)してしまうヨーロッパの局と堀口さんが朝の9時、10時に楽々とQSOしているのを聞いて、DXに対し鹿児島とはなんとロケーションが良いのだろうとうらやんだ」と。

J5CCカップで知られている堀口さん

堀口さんの活躍振りは、井波眞(JA6AV)さんの連載「九州のハム達。井波さんとその歴史」に詳しく触れたが、大河内さんの思いでの内容はそこに触れていなかったのでもう少し続ける。「J5CCは、戦前DXCC、WAS、WAZをすべて完成された日本で唯一の局であった。リグは861PP終段、出力は3KW。QSLカードを壁に止めた画びょうに鉛筆の先を触れると火花が飛ぶとか、高圧を導くゴム被覆線に付着したゴミがキーを叩くとケバ立つとかいう話が残っている」

庄野さんは堀口さんと面識はなかったが、戦後になって堀口さんの愛弟子であった横山耕三(J5DF、JA1SR)さんと親友となった。事実、堀口さんは「毎週金曜日に東京を出、月曜日に鹿児島を出る汽車で往復していた。アンテナはロングワイヤー1本であり、綱を付けてくり返し引張って、いかにもフェーディングのあるDX局である演出もしていた」と、横山さんから聞いている。

その大河内さんは昭和7年(1932年)の7月に免許を取得した。東京府立第五中学生、17歳の頃である。関東学院中学部の渡辺泰一(J1FV)さんとともに当時の最年少ハムであったといって良い。大河内さんらは半田さん、杉田さん、矢木さん、多田さんの「フォーギャング」や中村弘二郎(J1EC)さん、中川國之助(J1EE)さん、杉田千代乃(J2IX)さんらからいろいろなものを学んだ。

昭和11年頃の大河内さんのシャックJARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

ところが、昭和12年、ARRL(米国アマチュア無線連盟)がDXCCを制定する頃にはこれらのメンバーは社会人となってしまい、波を出さなくなっていた。大河内さんは日本のハムを代表するつもりでDXに取り組んだらしい。そして「私もずいぶん学業をおろそかにして、昼も夜も波を出しつづけたものであるが、DXCCもWASもJ5CCに遅れをとり、WAZはついに未完に終わった」と振り返っている。

[わが国第1号のYL] 

短い生涯を終えた杉田さんの妹さんがわが国初のYL局となったことは触れた。彼女をハムにしたのが矢木さんであった。千代乃さんは文化学院高等部美術科の学生で、油絵を勉強しており芸術家指向の女性であったという。兄に勧められたがハムになる気持ちが無かった彼女が心変わりしたのは、通夜の席ではなかったかと矢木さんは「Rainbow News」の11月号に書いている。

かっての仲間がハムになることを勧めると「わたしも面白そうだなと思うけど、なにしろ電気のことは難しくて何もわからないでしょう。とても無理だわね。もし、だれか教えて下さる方がいたら私ぜひ始めてみたいけど。矢木さん、あなた教えて下さらない」なぜか、矢木さんはテープレコーダーに録音していたかのように彼女の言葉を再現している。

矢木さんは、学校を卒業したものの翌年には徴兵、入営が予想されるため、就職は後にして好きなアマチュア無線に没頭していたため、時間は十分ある。「週2回の出稽古を始めたが、勘が良く器用な人だったからトンツーの方は予定以上に進んだ。だが学科が問題であった」と記している。それでも矢木さんの厳しい教授で合格。東京逓信局の特別の配慮で兄さんと同じJ1DNをもらう。

「マルテイ(逓信省)は男性ハムに対してはおっかないばかりであるが、YLに対してはまったく親切なのである。お嬢さん、兄さんの呼出符号を使いたくありませんか。コールは一人しか使えない決まりですが、あなた方は兄妹だから何とか考えてあげましょう、といったらしい」と、矢木さんはやっかみ半分の文章も残している。