[庄野さんの短い戦前の活動] 

これまで触れた矢木さん、笠原さん、島さん、大河内さんらは戦後もアマチュア無線再開に向けて活動し、さらにその後もリーダーとして活躍された。もちろん、戦前の関東地区のハムのなかには、この他にも触れなければならない方々がたくさんいる。しかし、記録にも限度があるため、別の機会に譲りたい。

ところで、庄野さんは昭和13年5月に免許を取得、7月に無線施設の検査に合格し、下宿の2階から自励式、終段入力5Wの自作機で初交信する。アンテナの引き込みはスペースが無いため、下宿の女将さんの許しを得て窓ガラスに穴を開けて処理する。初めての電波に応えてくれたのが当時、新宿に住んでいた村井洪(J2MI)さんだった。「ほどなくして届いたカードは黒一色で白抜きのJ2MIの文字が飛び出しそうに踊っていました」と、文学的な表現で思い出を書いている。

庄野さんの開局当時のシャック。

当時はアマチュア無線の電波が出せる時間が決まっており、午前2時から深夜12時までの内の11時間であった。14MHz、5W機で時間が許す限りキ―を叩いた。翌14年の卒業までの約10カ月間、交信局数はわずか約150局ほど。太平洋地域など海外の4大陸との交信の方が多かった。学校では同級生の年齢の幅が広いため、この頃は召集を受ける生徒がしばしばあった。その都度送別会を企画するなど多忙でもあり、交信時間は制約された。

庄野さんはレインボーグリルで開かれていた、JARL関東支部の会合に9月から参加した。その席で井上均(J2LC)さんの話を聞いたことは先に触れた。井上さんはJARL創立当時は最年少の15歳であったが、庄野さんがレインボーグリルで会った頃には日本で2番目にYLとなった尾台妙子(J2KU)さんと結婚していた。尾台さんはやはり矢木さんの指導を受けてハムとなり、その頃は井上さんが実習のため通った日本無線の社員であり、そこで知り合い、わが国初の「おしどりハム」となっていた。

実は、庄野さんはラジオ少年になる前は天文にあこがれていたことがある。米国のアマチュア雑誌「QST」の購読を始めてしばらくすると、米国・フロリダ州のアマチュア局が112MHz、1KW入力、ロンビックアンテナを使い、月の反射をとらえてそのエコーを当時のワイヤーレコーダーに録音した記事が掲載され、庄野さんは興味をもった。

また、米国でも56MHzの信号がリレーによって、東部から西部に届いたと沸きかえっていたのもこの頃だった。国内では、この年の5月13~15日に東大航空研が、関東上空の周回ながら無着陸飛行11,651Kmの世界記録を樹立していた。かつて天文少年、オートバイ狂の庄野さんの血が騒いでいた。

井上さんは東大航空研究所の最年少所員だったが、会合の席で「VHFを使った航空機の盲目着陸の研究をしていることを賑やかに報告された。私はエキサイトしていろいろ質問した」と庄野さんはいう。その興奮ぶりを知った井上さんは「遊びにおいでよ」とこともなげに庄野さんを研究所に誘ってくれた。

ほどなくして、庄野さんは東京・目黒にあった東大航空研究所に助教授の井上さんと主任の小澤国治(J2LR)さんを訪ねる。この頃、庄野さんが通学していた講習所には、教官として後に電波監理局長となる長谷慎一さん、アマチュア無線による初の米国との交信に成功し、戦後は日本短波放送常務になった河原猛夫さんがおり、庄野さんに通信省の研究畑への就職を勧めてくれていた。

[わが国初の正規の短波実験] 

余談であるが、河原さんの米国との交信については記録が残っている。昭和43年11月、当時のKDD(国際電信電話局)は埼玉県の福岡受信所を廃止する時に、関係者17名を集め「短波無線通信の黎明期を語る」という座談会を行なった。通信省工務局の技師で退官した荒川大太郎さんや、当時日本短波放送勤務の河原さんも出席し、思い出を語っている。

大正11年(1922年)の頃、荒川さん、河原さん、穴吹さんらは通信省の磐城無線局に勤務していたが、12年に岩槻受信局の建設工事を命じられる。「このころに短波の実験も手がけていたが、実際は長波に興味をもち、短波には関心がなかった」と河原さんは語っている。

ところが、当時の工務局長の稲田さんから「なぜ、短波の実験をやらないのか。なんでもかんでも実験をやれ」と叱られる。すでに欧米では短波によるアマチュア無線が始まっていた。稲田局長は遅れをとってはならないと判断していたらしい。河原さんらはありあわせの部品を使い米国の雑誌に載っていた短波受信機を製作する。

大正末期の岩槻受信局

岩槻受信局がJ1AAで交信した送信機