[河原さんら米国と初交信] 

「案外簡単にアメリカの短波の局がキャッチできました。これはえらいことになった」と、通信省本省に連絡すると「こちらからも送信せよ」と指示される。真空管UV203を1本使用した送信機を作り、80mバンドで送信するが最初はうまくいかず、2カ月ほど経ってサンフランシスコの局と交信に成功した。大正14年(1925年)4月8日であり、相手はU6RWだった。

その後、河原さんらは波長を80mから40mとし、さらに20mへと変えて交信を試み成功しているが「次いで5mもやろうとアメリカの人達と連絡をとってやったのですが、不成功でした」と語っている。コールサインはJ1AA。“お墨付き”の電波であり、アンカバーとは呼べない電波であった。ただし、本当のアンカバーハムもこの頃、海外との交信が可能なレベルにあり、アメリカとの交信をすでにやっていたかも知れない時期だった。

庄野さん開局3ヶ月後のシャック

[就職そして召集] 

再び、就職時期を迎えた庄野さんの話に戻る。講習所では庄野さん自身は「まずまずの成績」というが、実際は抜群の成績だったらしい。入学早々に同級生のために研究会の講師を務めるほどであったことでもわかる。ところが思わぬ事態が発生した。1学年の期末試験直前に祖母がなくなり、試験を受けることができなかった。2年への進級はできそうであるが、正式には5月の追試を受けてからの結果になった。

5月の追試で庄野さんは18科目ともに満点をとっても、追試では80点に換算される規定であり、卒業時の評価は止むをえなかった。庄野さんは第1級の無線通信士の資格を取得はしたものの、文部省研究生として井上さんのいる東大航空研究所に勤めることになった。同時に、物理学校教職科に入学し、研究と勉強の生活が始まった。

ところが、入学して2週間後に召集令状が届く。徴兵検査は居留地の東京で昭和14年(1939年)8月に受けた。「もし、郷里で受けていれば満州の部隊に行き、悲惨な状態となったノモンハンで戦死していたのではなかろうか」と庄野さんはいう。通常、徴兵検査は4、5月に行なわれており、8月の検査はもっとも遅い時期だった。

庄野さんと無線電信講習所の仲間達。座っている左が庄野さん。立っている左から3人目が大森義則さん

入隊は善通寺の山砲隊。下宿を引き払うに当たってアマチュア無線局の廃止届を出し、無線機や図書は1級下の大森義則(J2OW)さんに譲った。昭和16年(1941年)、中支から一時帰国した時、徳島の実家に立ち寄ると「母親が形見として残していてくれたのはQSLカード2枚、ARRLのアマチュア無線ハンドブック、JARL会員バッチであった」と庄野さんはいう。今年(2002年)11月15日に東京・グランドパレスで行なわれた「JARL創立75周年記念式典」に、庄野さんはこのバッチを胸に出席した。

善通寺での訓練が始まった。後にわかったことであるが、この善通寺は矢木さんにとっても思いで深い場所であった。召集までの短いハム生活の間、庄野さんはレインボーグリルの会合に数回出席しているものの矢木さんとは直接言葉を交わした記憶はないという。戦後もだいぶたった昭和57年(1982年)のレインボー会の時、初めて会話した。

庄野さんが乃木部隊で知られる善通寺の山砲隊に所属していた話しを聞いた矢木さんは「高松市内の栗林公園の池に落ちたことがありました」と愉快そうに話し始めた。実は、矢木さんが小学生の頃、父親は善通寺のある部隊の連隊長であり、一家で善通寺に住んでいた。ある日栗林公園の近くで行なわれた会合にお供でついて行ったが「おおはしゃぎして、池に落ちてしまい大騒動になってしまった」ということであった。「不思議なご縁でした」と庄野さんは振り返っている。

[出征 中国へ] 

善通寺の山砲隊には現役兵に2日遅れての入隊であったが、思いがけない体験が始まった。1年前にキリスト教徒となった庄野さんは「聖書」と「賛美歌」を持参したが、閲覧許可の印をもらう。入隊2日目から志願して朝の馬の運動に参加した。その時、錬兵場で騎兵の馬の疾走に煽られて中隊の全馬が暴走し、次々と中隊の兵が落馬をしていく中で、庄野さんは完走することができた。それ以来、あらゆる種類の馬を乗りこなすことに挑戦し、2年2カ月無事故だった。

昭和14年(1939年)の10月8日、工兵隊、輜重隊、山砲隊、騎兵隊の4連隊は40師団に転属となり、中国に向けて坂出港から出征した。その折り、庄野さんは師団出陣式で、閲兵する師団長の左右に位置する杖兵に任命された。乗船した船は長江を遡り、庄野さんらは大治鉄山の南50Kmにある部隊に配置された。その後、2年間に16の作戦に参加したが、連隊でもっとも尊敬を集めていた中隊長の大尉は、無線技術を生かして連隊本部付きになることも、幹部候補生となり士官学校に行くこともないような道を選ばせてくれたのである。