JA1AA 庄野久男氏
No.14 戦争と庄野さん(2)
[東京に連れて帰る]
昭和15年(1940年)は、戦前まで使われていたわが国の「天皇紀」では紀元2600年に当たる。この年の6月21日だった。この日は主力が大作戦に参加、庄野さんらは留守部隊として残っていた。ところが近くに2000人ほどのゲリラ兵が出没しているとの情報が入り、掃討に出ることになった。この頃、庄野さんは山砲隊の人事係も兼務していたため、病人を含めた残留の責任を負っていたが、庄野さん自身も出撃することを決めた。
歩兵40名は軽機関銃を装備、山砲隊は16名で砲1門を携行し、地の利を得るために小高い山に登り、山砲を組みたて攻撃に出た。ゲリラ兵ではあったが、予想以上に手ごわく山の三方を包囲されてしまった。残る一方は灼熱の地獄である。山砲は一発の弾を残して撃ち尽くしてしまい、軽機関銃も歩兵銃の弾も残り少ない。
軍規では万一、全滅することになっても山砲隊の砲は敵に渡してはならないことになっている。そのため、最後の弾は撃たずに残しておき、砲口から砂を詰めて暴発させることになっており、暴発によって砲兵はその破片で自決することになっていたのである。
太平洋戦争で使用された軍用無線各種 電波実験社「日本アマチュア無線外史」より
その時が近づいていた。覚悟の瞬間がやってきていた。その時、庄野さんの耳に「東京に連れて帰る」という言葉が聞こえた。もちろん、上司や同僚がしゃべったものではない。「天の声」であった。庄野さんはこれまでの人生で「天の声」を3度聞いている。その最初であった。不思議な気力が庄野さんに湧いてきた。「我々は絶対に助かる。大丈夫だ」と庄野さんは仲間を励ました。
庄野さんの励ましに説得力があったためか、打ち尽くした山砲の脇で頑張れるだけ頑張ろうという雰囲気が生まれた。ほどなくして庄野さんは歩兵が見覚えのある30MC真空管を使った電池式40MHzの携帯無線機を持っていることに気付き「友軍ともう一度連絡をとってほしい」と依頼する。もちろん、歩兵はそれまでも発信していたが連絡が取れなかったらしい。
庄野さんの依頼で改めてスイッチを入れると、かすかな感度ながらも連絡が取れた。安心した庄野さんらは山肌のひだに身を埋めて眠った。暗くなるにともない雲が出始め、土砂降りの天気となった。部隊は戦死した戦友を収容して、豪雨と闇にまぎれて脱出に成功する。
昭和15年7月18日付けの庄野さんの免許執行令状
その後、しばらくして庄野さんは午前、午後の馬にとっては必須である運動と、病人の介護で過労となり倒れる。41度3分の高熱である。原因は不明、軍医の絶望との判断を聞いたが「歯を食いしばり耐えた」と庄野さんは思い出を語る。大治までトラックで運ばれ、野戦病院で47日間の休養を終え、原隊に復帰する。
翌16年(1941年)5月、短期の帰国の命を受け、長江を下り南京で1カ月間、船待ちをすることになる。まじめな庄野さんを遊びに誘惑できた仲間には賞金を出す、などと騒がれたりしたが、市中で映画を見たり、ラジオ店を訪ねたりした。「ラジオ店ではRCA製の真空管6L6Gの箱入りを見つけ、この球を使用してのJ2IB局再開を夢見つつ、6月7日に善通寺に帰隊した」という。
召集解除となった庄野さんは16日に東京に戻る。その頃、東大航空研究所の井上研究室は星合教授らの下に、科学第3部となり、東工大、東北大、そして東京・立川にできた陸軍航空研究所の共同研究の場となっていた。再び研究生として復帰した庄野さんは「戦地ではないが、別の戦場になっていた」とその印象を思い出している。
[航空機の無線操縦と電波高度計]
研究所での研究テーマは軍事関連のみとなっていた。もちろん、アマチュア無線の再開は認められなかった。庄野さんは小澤國治(J2LR)さんらと射撃訓練用模型飛行機の無線操縦の開発を手がけることになった。50MHz、4チャンネルを使用しリードリレーで信号を選んで操縦するもので、水戸飛行機学校で試験飛行を行ない「ほぼ8分通りの完成だった」と庄野さんはいう。
この時、使用したのが真空管30MCだった。中国戦線で九死に一生を得た時、歩兵がもっていた携帯無線機に使われていたものと同じ物であった。「急にその時の状況が思い出されました」と庄野さんは語る。ついでながらリードリレーは日本電気製、電池は日本初の積層型で三菱電機大船工場で作られたものであった。
9月になって技官に昇格し、陸軍との研究も兼ねるようになる。研究テーマは航空機の電波による対地高度計の開発であった。すでに米国でも開発されていたFM波を使用して反射ビートの差で高度を測定する方法も研究されていたが、庄野さんらはパルス波を使っての精度の高い測定に挑戦する。
周波数は375MHz、1マイクロ秒のパルス、出力は1kWだった。ブラウン管上には100mmのマーカーを入れて、簡単に目視できるようにした。電源は積層電池2000Vであった。水戸飛行学校でテストを行なったのが12月7日。5500mの高さまでを見事に測ることができ、研究所は「世界初の開発」と歓声をあげた。