テストは徹夜に近い状態で行なわれ、終了後、東京に帰った庄野さんは翌8日は休みのため夕方まで寝込んでしまう。目覚めると玄関のガラス戸に新聞の号外が挟み込まれていることに気が付く。日本軍のハワイ奇襲成功を知らせる号外であった。翌日の研究室は騒然としていた。開戦後は、この高度計技術を活用しての電探(レーダー)の開発に移った。

172MHz、3KW出力、一次パラボラアンテナを使用し、昭和17年(1942年)の2月6日、133Km離れた羽田上空の飛行機を捕らえることに成功した。この頃には、さまざまな方式の電探の開発が進められており、昭和13年(1938年)に日本電気の小林正次さんの着想により、陸軍が着手したVHFの干渉式や、昭和16年(1931年)9月に実験に成功した海軍のVHFパルス式があった。

一方、ドイツから資料を得て進められていたものに「ウルツブルグ大学」開発のレーダーがあった。日本人がドイツでこのレーダーの現物を見たのは昭和15年3月で、日本が関連機器を入手できるようになったのは、昭和18年10月だった。ちなみにドイツからの資料入手に関しては、井原達郎さんの連載「中国地区のハム達。井原さんとその歴史」で触れている。

[封印された無線機] 

日米開戦が決まったのは、昭和16年(1941年)夏であったが、すでに15年の秋には新たにアマチュア無線免許を取ることがむつかしくなり、16年2月を最後に免許の交付は停止され、アマチュア無線局開局への道は閉ざされてしまった。日米開戦とともに基本的にはアマチュア無線は禁止され、ハムそれぞれの通信機は電波監理局職員の手により封印されてしまった。

12月8日の開戦以降、順次アマチュア無線交信停止の命令が各ハム達に伝達され、東京市内では東部軍の自動車に将校、通信省係官、JARL会員それぞれ1名が乗リ、無線機に封印して回った。JARLも同行したのは「あくまでもJARLの手によって封印したという形にしたかったため」と、香取光世(J2OV)さんが戦後語っている。

「Rainbow News」No.20には「太平洋戦争開戦時におけるアマチュア無線の状況」を戦前のハムの方からアンケート調査した結果が掲載されている。「なにぶんの通知あるまで使用を禁止する」と通信機を単に封印された人がほとんどであるが、無線機や部品を供出させられたり、また、代金を受け取って買い上げられたり、実にさまざまであったことがわかる。

高崎暹(J2XA)さんは陸軍の平磯送信所に終段HK24PPのセットを“貸し”ている。山田愿蔵(J2OM)さんの通信機は400円の国債で買い上げられた。「元金は30円位であったので内心は納得していた」と記している。宮沢寛(J2MC)は封印されたものの「受信機」は新しいものを作り短波を聞いていた」という。

ところで、JARLは開戦とともに機能停止状態となった。関東のハム達は、多くが無線通信技術を見込まれて、戦争遂行のための職場や、研究開発、前線で働くことになった。その何人かを紹介する。まず、戦時中JARLの事務局業務を引き受けられた香取光世さんから始める。開戦直後は「JARL、とくに関東支部は中空状態になってしまった」と、当時の状況を香取さんは記している。

このため、香取さんの他、三田義治(J1GL)さん、石川源光(J2NF)さん、栗山晴二(J2KS)さんらが集まり協議、その結果、香取さんに事務のすべてが任せられることになる。関係書類、販売用品の日誌抄録、手続用書類、私書箱などが香取さんの家に持ち込まれ、会費(盟費)の収入もないため香取さんは自腹を切って事務に当たり、さらに出征の見送りなども「できる限り代表として出席させていただきました」という。

この頃、JARLの運営には若い会員が活躍するようになったようであり、香取さん、栗山さん、石川さんらは昭和10年前後に免許をとったハム達である。香取さんは「国防無線隊」についても触れており「国防無線隊」はJARLを中心に発足したという。開戦後には関東の隊員は東部軍の軍属として協力するようになったという。

戦前の香取さんのシャック JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

[国防無線隊・愛国無線隊] 

昭和7年ごろから、国防のためにアマチュア無線にも役立ってもらおうと「国防無線隊」や「愛国無線隊」が発足した。関東の「国防無線隊」隊員は東京・赤坂にあった通信・電波兵器関係の部隊に部屋を割り当てられ、軍用機器の修理、アマチュア式の送信機・変調器などの製作、各地にある通信所の整備、技術指導を行なった。戦争末期には香取さんの自宅は東京大空襲で焼け、さらに通信部隊も夜間空襲で焼失して休止状態となったという。その時に、JARLや「国防無線隊」の書類も焼けてしまった。

以上の話は、香取さんが「Rainbow News」No.20に報告したものである。その後、香取さんは陸軍第9研究所である「登戸研究所」に移り、さらに研究施設の長野県への疎開にともない、長野に移動し現地で終戦を迎えている。中村藤作(J1GE)さんも「愛国無線隊」について触れている。ただし時期はやや古く昭和8年8月9日から3日間の関東1府5県にわたる防空演習についてである。

東京の森村喬(J2KJ)さんの東都国防無線隊員証JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より