演習は7月22日のレインボーグリルでの発団式に始まり、当日はJ1局が34局参加、横浜2、茨城3、千葉2カ所の監視哨からの敵機来襲の報告を防空司令部に連絡する仕組みであった。全員が不眠不休で頑張ったことを記しているが、同時に8月11日の「信濃毎日新聞」が「関東防空演習をわらう」の見出しで「この演習は今日の科学では意味がない。東京は焼け野原になろう」と書いた記事を紹介している。まだ、この当時は言論の自由があったが、それでも陸軍は「信濃毎日を焼き討ちにしろ」と憤ったらしい。これについて、中村さんは「12年後にはその通りになった」と先見の明に感心している。

昭和8年の「関東防空演習」については住吉正元(J1ES)さんも思い出を「Rainbow News」No5に投稿している。また、JARL発行の「日本アマチュア無線のあゆみ」には約7ぺージにわたって詳しく掲載されている。その後、各地区で演習が行なわれたがいずれもJARL会員との密接な連絡の元で実施された。

この演習の時にCW(モールス信号)送信で相手と喧嘩をした話が同じ号に掲載されている。松平頼明(J2II)さんは仲の良い仲間10名ほどで協力隊を組み、千葉県の東金の近くに布陣した。夜になり松平さんは交代任務についたが、関西の協力隊との間に気にいらない事が起こり喧嘩になった。

「口では大声で口きたなく早口でののしっても、モールスにはそのまま乗りません。Qコードにもありません。一文字が長い和文モールスでの言い合いです。なんと間のびしたおおらかな喧嘩であったことか、今思い出しても噴き出すくらいです」とおかしかったことが披露されている。

昭和16年11月の「JARL NEWS」第95号には、笠原功一(J2GR)さんが「JARLの15年を回顧して」と題して、簡単なJARLの歴史を紹介している。ちなみに、「JARL NEWS」は、英語使用不許可のため5月発行の93号から「日本アマチュア無線聯盟報」と改題され「JARL NEWS」の文字は小さくなった。さらに、この年12月発行の96号を最後に発行が停止されている。

「JARL NEWS」は敵国語使用禁止のため題字が変更された。昭和16年11月発行の第95号

笠原さんによると、アマチュア無線局は昭和7年(1932年)3月2日の小澤匡四郎(当時J3DA)さんの計画による演習が最初であり、昭和12年9月には「愛国無線隊」を「国防無線隊」に名称変更したという。この号には同時に昭和15年(1940年)10月までJARLが参加したおもな「国防演習参加一覧」が掲載されている。

[戦地での活躍] 

戦後になって、多くのハムが戦時中の思い出を書いているが、その多くが国内で無線通信や電波兵器の開発に携わった方のものであり、戦地での報告はあまりない。その数少ない中の一人である岡登博美(J2NC)さんは、昭和17年(1942年)1月に近衛輜重隊に入隊し、2月には北支に出征し、終戦時は赤道直下のハルマヘラ島(インドネシア)にいた。

戦争末期となると「電波の発射は危険ということで、無線機はもっぱら日本の海外放送を受信するために使った」「乾電池はたくさんあったが、補給路を絶たれたためにすぐに底をつき、手回し発電機を使った」という。また、8月15日の玉音放送は「聞き取れず、デマ放送(敵の放送)では終戦が華々しく伝わってきた」と書いている。

昭和12年9月の「関東防空演習」での編隊式JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

中島泰男(J2NY)さんは旅順郊外の水師営で関東軍結核療養所の薬剤将校であった。勤務が終わると退屈なため、内地(日本)から0-V-1ラジオのキットを取り寄せて、炭火のハンダゴテで組み立てた。波長もいいかげんであったが強力な日本語が聞こえてきた。VOA(ボイス・オブ・アメリカ=米國の日本向け放送)であった。

「日本の大本営発表とまるっきり違う放送をひそかに毎晩楽しみに聞いていた。もちろん内容は外部に漏らさず、部屋を空けるときはラジオを隠して万全を期していた」という。ところがある晩、放送を聞いていると突然隊長のK少佐が入って来たがスイッチを切る暇がない。「どうせデマ放送に決まっています」というと少佐は「そうじゃない、これは本当のことだ。日本は駄目かもしれん」といい、その後は時々訪ねてこられて閉口したという。

石川舎人(J2MV)さんは、中国・南京で地図伝送の開発を命じられた。現在のファクシミリである。前線を移動している部隊に位置を正しく知らせるためには地図が伝送できれば便利であると、開発の命令が出た。当時日本では早稲田大学の円板式と浜松高工の電気式とが知られていたが、文献がなく南京中を探し回ったり上海に探しに行ったりした。

「月刊ラジオニュースにテレビジョンの基本回路図が掲載されていたのを見つけ出し、トランス類を自作すれば真空管など部品入手の見当はついた」という。試作機が完成したため南京で実験した。その結果「山川などの文字は1文字3cm位の大きさは送信可能となったが、実際に地図を送受するまでは至らなかった」という。