[従軍記者] 

新聞社の従軍記者となって戦地に出掛けたハムもいた。職業がら戦後になってその思い出を残してくれている人が多い。柴田俊生(J2OS)さんは朝日新聞社社員として日本光音工業で作られた無線伝送装置を羽田空港から漢口へと運んだ。漢口攻略戦は終了してしまったため間に合わず、しかも途中飛行機の故障から船便に替えて漢口に着くが、実験は電源同期が取れず、また、出力が不足で失敗した。

柴田さんは、その道中では上海で山本信一(J3CS)さん、南京で国澤忠次郎(J2NR)さん、漢口で三本義喜(J2MU)さんと会い、さらに、長谷川正明(J2ND)さん、西丸政吉(J2MN)さん、武田国雄(J2MY)さん、岸上英三郎(J4CU)さんを集めて「前線JARL大会」を開催している。

「前線JARL大会」のもようは写真として残っている。この中の国澤さんは昭和12年(1937年)から朝日新聞社の報道班員として中国に2年間駐在し、現地の状況を通信で伝送し続けた。「北支(済南、徐州、開封)の戦闘から中支(武漢、南昌など)に500Km近い移動で大変な苦しみを味わった」と記している。

昭和13年11月の「前線JARL大会」の記念写真JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

住吉正元(J1ES)さんは読売新聞社の特派員として武漢三鎮攻略戦に従軍する。武漢三鎮攻略戦は昭和13年(1938年)10月から始まり、漢口、武昌、漢陽の三都市のいわゆる武漢三鎮を攻撃する作戦であった。住吉さんは上海から長江を700Km遡った江西省九江で中支派遣軍大久保部隊の大久保一億大佐に面会する。大久保大佐は昭和8年の「関東大演習」に参加した「愛国無線隊」の隊長で、住吉さんは当時行動をともにした間柄であり、異国での懐かしい再会であった。

[航空通信隊・航空情報隊] 

ハムが組織的に軍務についた例もあった。千葉県の下志津陸軍飛行学校で訓練を受けた人達である。昭和12年(1937年)7月7日、陸軍航空本部から全国のハムに対して航空通信業務に参加して欲しいとの要請があった。応募した17名は12月1日に下志津陸軍飛行学校に集まり、その後約1カ月間の講習を受ける。

翌年1月9日に門司に終結、中国の秦皇島に上陸し天津の徳川航空兵団に配属される。間もなくして北京に転進し北京大学のキャンパスを宿舎とすることになった。このもようは何人かのハムが記録している。木村茂幸(J3GU)さんは、昭和16年(1941年)に南仏印(現在のベトナム)に進駐し、シンガポール攻略にも参加した。

半年後、再び南京に戻り昭和20年に内地(日本国内)の通信隊と交代することになり「支那大陸から満州・朝鮮を経ての移動中、平壌にいる時に終戦を迎え、ソ連の勢力圏に入ってしまった」という。そして、昭和22年(1947年)11月に帰国するまでソ連のエラブカに捕虜として抑留される。

この航空通信隊や航空情報隊の任務については「暗号電報の送受と送信機、受信機の整備であったが、いろいろな改革を行なった」という。単信式を双信式にしたり、電源の現地事情に合わせての改良、アンテナの設計架設なども行なった。

満州でも開局が増加した。奉天省本渓湖南山にあった永野武(MX2B)さんのシャック JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

堀内安(J2HC)さんや西丸政吉(J2MN)さんも、航空通信隊、航空情報隊について触れている。2人ともに下志津の17名の中に加わっていた。堀内さんは昭和15、16年にかけて北京には「JARLの人々が少なからずいた。佐藤謙次(J2IN)詠村昇(J2IL)両氏と一緒に偕行社で会食したり、通州に出掛け放送局の山口篤三郎(J3CK)氏にも会ったりしたものである」と思い出を記している。

一方、西丸さんは17名の行動とその後の消息を調べて、掲載している。兵役のために日本に帰還し、その後戦地でなくなった人もおり、消息がわからない人もいる。17名の内、すでに触れた3名以外の名前とコールサインは以下の通りである。

    石山舎人(J2MV)青木貞雄(J6CI)木村茂幸(J3GU)
    木下喜作(J2DG)大島正臣(J2HZ)上村浩一(J2MA)
    中塚正明(旧姓・長谷川、J2ND)大藤俊雄(J2NH)岸上英三郎(J4CU)
    武田国雄(J2MY)田畑太市(J2CZ)西村正二(J3FN)
    岡村久寿(J2NB)大津武義(J4CN)

以上、関東のハム達の戦時中の行動を追ってみた。太平洋戦争は、無線通信技術が本格的に使用された初の大規模戦争であり、その果たす役割は大きかった。しかし、日米の技術の差は大きく、とくにわが国では電探と呼んでいたレーダーの開発では完全に遅れをとった。戦後、アマチュア無線の再開に当たっては、その反省をバネにして取り組んだ人も少なくなかった。