[敗戦] 

昭和20年(1945年)8月15日、日本は降伏し、日中戦争を含めると8年間の戦争は終了する。国内外で戦争遂行に従事していたハム達の少なからぬ人達は8月10日頃には、ポツダム宣言受諾を巡る交渉を海外放送で聞いたりして、無条件降伏の流れを一般の人より早めに掴んでいた。無線通信を手がけていたことや、国内外で比較的中枢部に位置する業務に属していたからである。

終戦。ほとんどの国民が打ちのめされた中で、しかし、アマチュア無線再開の運動は驚くような速さで始まった。その再開への取り組みについては、後に触れるが、満足な生活もできない疲弊した状況の中で、生活に必需的でもないアマチュア無線再開活動が始まったことを考えてみたい。

人生の中で戦争ほど人生観を変えてしまうものはないといわれている。自身が生きるか死ぬかという極限状況に置かれると同時に、平時なら大犯罪である他人の命を奪うことを最大の目的に日々生活する異常体験は、その原因が宗教、思想、生活権などいずれに起因していようと戦争以外ではありえない。その異常体験をくぐり、敗戦により意気消沈したハム達の精神状態は大きく二つに分かれたものと思われる。

無線技術を戦争の具に使ったという罪悪の意識から、2度とキーやマイクを握りたくないと決めたハムも多かった。事実、戦後再び免許を取ろうとしない人も多い。それが戦前と戦後のアマチュア無線の歴史を断絶させた理由ともなっている。一方、戦後の閉塞状況を脱するためのひとつとしてアマチュア無線に夢を託す人も現れた。この人達が再開活動に取り組み始めた。生活よりも夢を選んだという意味では、今の日本人よりは健全であったといえる。

庄野さんのSWL時代 --- 「DX欄」を担当したこともあり、熱心に受信して、海外からQSLカードを集めた

[庄野さんの戦後] 

庄野さんが勤務していた航空研究所の電探部隊も、爆撃の被害を避けるために分散し、昭和20年(1945年)2月に甲府市郊外の日川村に疎開した。8月6日に広島に落とされた特殊爆弾については「ニューデリー放送で“原子爆弾”であることを知った」と庄野さんいう。15日の玉音放送は「雑音が多くて聞き取れなかった」ものの、庄野さんは大学の備品、資料とともに独自の研究資材もまとめてトラックに積み込み、東京の駒場に戻る。

戻ってみたが研究所電気部の建物は無人であり、急いで日川村に引き返してみると、すでにGHQに関係書類や設備の一切が接収されている。さらに、航空研究所に対してGHQは「航空に関する一切の研究を禁止、所有の全工作機械を賠償のために接収し、航空関係の実験設備を破棄すること」を発令した。

その後、教授や助教授は転任したり、辞職したために庄野さんは「一介の文部技官として時代の流れに耐えていた」という。やがて研究所は理工学研究所となり、海軍でレーダー開発に参加していた熊谷寛夫助教授が赴任してきた。助教授は庄野さんを教官の末端に加え、また、戦時中に「時間外ならやって良い」といわれていた「落雷時や流星からの反射現象」の研究続行を許したという。

[JARLのSWL会員となる] 

ひとまず生活が落ちついた庄野さんは、アマチュア無線雑誌「CQ ham radio」を読んでびっくりする。「戦後早々からアマチュア無線再開の運動が幅広く展開されていたを初めて知った」からである。庄野さんは研究室に残っていた短波受信機を引っ張り出して聞き始め、次いでJARLのSWL(短波受信者)となる。ナンバーはJAPAN1-268となった。

「CQ ham radio」は、JARLの機関誌として昭和21年(1946年)7月に創刊されたものであり、情報に飢えていたハム志望者が飛びつくように購入した。庄野さんが読んだのは第4号であった。昭和26年(1951年)6月、読者から筆者に回る事態が起こる。米田治雄(J2NG)さんが連載していたDX欄を引き継いで欲しい」と依頼されたからである。米田さんは米国にフルブライト留学生として出掛けることになり、その後任依頼である。「米田さんとの能力の差を知っていたのでお断りするつもりでいると、出発は8月であり、もう引き受けざるを得なくなっていた」と、50年以上前を思い出している。

発行された「CQ ham radio」創刊号の9月号と10月号

庄野さんに「DX欄」の担当を引き継いだ米田さん

雑誌に投稿するようになると情報も集まってくるようになる。この頃、電波法が施行され、従事者試験も始まっていたが、庄野さんは従事者試験が実施されたのも知らなかったため、2回目の試験を受けて合格。一方、開局の見通しがないことに業を煮やした一部のハム志望者が不法電波を発射したりした。昭和25年(1950年)に朝鮮動乱が始まり、GHQや日本政府は、治安上その取り締まりには厳しかった。ある時、あちこちで「庄野が不法電波を出している」とのデマも飛んだ。事実無根であることが実証できたが「不愉快なことだった」という。

[JARLの再開] 

当然のことながら、この間JARLは組織として再開運動にいち早く取り組んだ。概略を記すと昭和20年9月頃に安川七郎(J2HR)さんは、個人的に逓信院電波局の宮本吉夫局長と会い、再開を依頼。これに対して、東京逓信局は10月初めに戦前のアマチュア無線局の有志に「アマチュア無線再開案」を問い合わせている。

この通達を受けて集まったのが、田母上起代士(J7CG、J2PS)さんによると、森本さんのほか、大河内正陽(J2JJ)さん、矢木太郎(J2GX)さん、森村喬(J2KJ)さん、米田治雄(J2NG)さん、柴田俊生(J2OS)さん、多田正信(J2GY)さんらであり、会合では「アマチュア無線の再開について何を希望するかなどの意見を求められた」いう。