その帰途、大河内さんの勤務先である東京工大の電気工学科に寄り「個々に意見を言わずに、JARLとして申し入れをしようと、話しがまとまった」という。その後、これらのメンバーが中心となって、再開のための活動が始まった。会議は主に東京工大で開催され11月12日の会合以降は月に2、3回の頻度で開かれ、JARLの会長として八木アンテナの開発者である東工大学長・八木秀次博士を選出するとともに、米国のFCC(連邦通信委員会)のルールを参考にして、アマチュア無線規則のJARL案が作られていった。

[JARLの再結成] 

翌昭和21年(1946年)1月にはJARLの正員資格、組織が検討され4月にはJARL再結成の概要が決まった。2月には逓信院を代表した石川武三郎さんとJARLの合同研究会がもたれ、その成果は昭和25年(1950年)に公布された「電波法」の中に、アマチュア無線が新しく規定されることにつながっていった。田母上さんによると「連絡の取れた人、約120名ほどでJARLを再発足させた」といい、8月11日には東京新橋の蔵前工業会館で戦後初のJARL大会が開催された。

大会には35名が参加し、八木秀次会長、矢木太郎理事長が正式に決定、理事には大河内、多田、三田、蓑妻、森村、安川、佐々木、渡辺、石川、田母上の10氏が選出された。JARLの再発足を契機に再開運動はさらに活発となっていった。ただし、この頃には皆、再開については比較的楽観的な予測をしていた。

JARLの再発足に骨身を惜しまなかった大河内さん

しかし、折衝した逓信院(昭和21年7月1日から逓信省に改称される)からはアマチュア無線の再開は「GHQの意向次第」といわれ、GHQとの折衝を始める。GHQは「検閲がむつかしい。米国軍人にもアマチュア無線を許可していない」といい、併せて「日本政府と交渉すべきである」ともいう。

[あらゆるつてを辿った再開活動] 

JARLも徐々に再開が容易ではないことを感じ始める。あらゆる“つて”を使い、日本政府やGHQの要人に陳情を続けた。もちろん、戦前に無線を通じて交流を深めた米軍のハム仲間にも会い、協力を求めた。ARRL(アメリカ無線連盟)にも支援を求めたりした。当時、日本に駐留する米国軍人にはアマチュア無線は許可されていなかったが「軍用補助局」の名目の下にJAのプリフィックスを使っての交信が盛んに行なわれていた。

そのJA○○○のコールサインを聞くたびに、再開を望むハム志望者は苛立ちを募らせていった。それでも、JARLは再開を目指してSWL会員制度を取り入れ、各地にクラブ結成を促した。各地に生まれたクラブは受信講習会、クラブ報の発行、講演会、関連施設の見学会などを実施していた。また、JARLは再開促進のねらいも兼ねて、昭和23年(1948年)に「災害通信網調査」を実施した。

この調査は災害時に、アマチュア無線を使用した非常通信がどの程度可能かを詳細にアンケートの形で調べたものである。しかし、JARLの努力にもかかわらず、再開の兆しは生まれてこなかった。そのような情況下でも、各地にクラブは増えJARL大会も着実に回を重ねて開かれていた。ハム志望者が願っていたアマチュア無線の早期再開は、昭和25年(1950年)に始まった朝鮮動乱により、さらに困難となっていった。

大河内、松平、田母上さん3氏連盟で幣原喜重郎議員に提出されたアマチュア無線再開の嘆願書

[暁の急襲 不要電波取締り] 

「暁の急襲」--- 不法電波取締りの情況を表現した言葉である。朝鮮動乱が始まり、GHQや日本政府による不法電波の取締りはさらに厳しくなった。日本国内からアンカバーといわれる不法行為が増えだしたのには2つの理由があった。一つは、あまりにも遅い免許再開に業を煮やしたからであり、もう一つは再開促進をねらいある意味では意識的に電波を出したからである。

第2次大戦後、同じ敗戦国であったイタリアは、マルコーニの生まれた国であったためもあって、アマチュア無線は終戦直後に再開された。しかし、ドイツは米、英、露、仏の4カ国の占領であったことから、再開は4年後の1949年になった。それに対して、日本は一向に再開の動きがない。さらに、昭和26年6月に従事者免許試験が行なわれたにもかかわらず、開局の許可は容易になされなかった。

若いラジオ少年やハムマニアは、居ても立ってもおれなかった。とくに、JARLがSWL制度を実施、SWLナンバーを発行し、海外のアマチュア無線を受信し、カードを送るようになるにともない、海外局からは再開支援への熱烈な声援が急増した。なかでも、西ドイツの運動に大きく刺激を受けたハム志望者は少なくなかった。

西ドイツのハム志望者も再開までの間は無許可の電波を出し続けていた。彼等は米軍指令部に行き「我々は米国に抵抗しているのではない。ドイツ政府が免許を再開してくれないためである。毎週、電波を出している者のリストを提出するし、私書箱に送られてくるQSLカードも毎日検閲しても良い」と提案した。米軍は「裏付けのないコールサインでオン・ザ・エアすることを認める。早くアマチュア無線の法規を作り、正式な許可を得るようにすべきである」と支援してくれた。

この情報はすぐに日本にも伝わり、西ドイツに見習えとの動きが始まった。しかし、日本ではJARLという組織ぐるみでの抵抗はできないことから、個々に不法電波が相次いで出された。JARLはむしろ不法局が出ないように努力する責任を、GHQと日本政府から負わざるをえなかった。電波監理は占領政策上、最高の重要事項である。朝鮮動乱の開始とともにその取締りは一段と厳しくなった。

不法局の摘発も厳しかった。電波監理局の係官1名と大勢の警察官がトラックに乗って、早朝にやってくる。まず、該当者の家の周りを取り囲んでおいて、係官と警察官1名が家に乗り込み徹底的に捜索され、関係機材と資料一切が押収された。不法行為とはいえ、連行されたのは高校生、大学生が多く「近隣の人達や遠慮のないマスコミから受ける苦しみは大きかった」と庄野さんは振り返る。