[庄野さんの再開活動] 

庄野さんが、JARLの再開活動を知ったのは、職場の温品秀雄さんから創刊された「CQham radio」の3号までをもらい、読んでからであった。その後、同誌の「DX欄」の担当となり“SWL生活”を続けていくに従い、摘発された不法局の悲報に絶えられなくなった。すでに従事者試験が始まっても一向に再開の“めど”が見えない。事態解消のために所属教会の先輩である堀内健介前駐米大使に相談したり、米国に知人の多い塚原要牧師にGHQの要人紹介を依頼したりした。何とかしてGHQの意向を知りたかったからである。

昭和27年(1932年)1月6日の日曜日。庄野さんは所属キリスト教会の新年礼拝に出席し、アマチュア無線の早急な再開を祈ったが、礼拝を終えると突如「永井弘先生を訪ねなさい」という声を聞く。庄野さんが聞いた生涯2度目の“神の啓示”である。実は庄野さんは、無線電信講習所時代に先輩から「英会話の勉強をしたい者集まれ」と誘われていったところが教会であった。何度か通う内に「平和な社会、幸せな生活」に導くために真摯な活動を続けている若い牧師や米国の老宣教師達の姿に感銘し、昭和13年(1938年)にクリスト者(クリスチャン)になっていた。

[君、申請書を書き給え] 

14日の月曜日に庄野さんは、電波監理委員会・検定課の永井さんを訪ねる。永井さんは無線電信講習所に通信術の教官として逓信省から来ていた方で、この頃は退官して本省に戻って無線従事者免許証の発行を手伝っていた。話しが終わった後、永井先生から「石川さんが法規課長になっているので挨拶しておくといいよ」といわれ、その足で会う。

石川武三郎さんは、無線電信講習所で国内法規を教えていた先生で、太っ腹なことで知られていた。近況や、アマチュア無線の不法局とその取締りの激しさ、また、JARLからの再開要請の申請書が上に届いていないことなどを話し終えると「君が申請書を書き給え。それをもって、GHQの通信委員会と交渉するよ」といわれた。庄野さん「正に晴天の霹靂であった」という。すぐに、法規課から放送局申請書の雛型を借りて、申請書づくりに取り組むと同時に、送信機づくりの想を練る。

申請書は控えを含めて3通を作成し、28日に石川課長に提出すると「いいだろう。動くぞ」という。それを聞いた庄野さんは飛び出すように辞去し、心配していてくれた斎藤健(元J2PU)さん、福士實(元J2KM)さんに報告し、次いでJARL本部、JDXRC(全日本DXラジオクラブ)の市川洋さん、桑原武夫さんにも連絡を取った。

庄野さんの「無線局免許申請」は、各地の申請を願っている人の参考になった。

[猛烈な再開活動] 

庄野さんは、JARL経由、あるいは個人的に全国のハム志望者に対して、開局申請書の写しを配布した。当時の開局申請書はまことに面倒なものであり、ラジオ放送局の開局申請にも似たような書類が必要であった。このため、庄野さんから送られてきた申請書の写しは全国のハム志望者にとっては「喉から手の出る」ほど欲しいものであった。現在でも、当時のことを思い出して「あの時を感謝している」というOMは少なくない。

2月12日にはJARL関東支部の柴田俊夫支部長が召集した集まりがあり「アマチュア無線再開の見通しがついた」と、案内状に記載された。21日にはJARL関東支部集会が蔵前工業会館で開かれ、庄野さんがそれまでの経過を報告する。ハム志望者の熱気が高まっていった。

それでも、庄野さんの猛烈な再開運動は続けられていた。塚原牧師から連絡を受けて、斎藤さん、福士さんに同道を依頼し、東京・田村町にあったNHKビルの最上階に、GHQにあったCIEのメリデス氏、CCSのファイスナリー氏を訪ねて、再開を依頼した。加えて、再開の要望書を書き上げ、同文の文書を友人にも作成依頼しGHQの総司令部に提出した。

この頃、庄野さんはもう一つ課題を抱えていた。不法局として摘発された仲間の救済である。この当時は、不法電波で逮捕されると、その後の2年間は免許は与えられないことになっていた。このため「2年組問題」ともいわれていたが、庄野さんは講和条約の発効を機に恩赦ができないかと運動を始める。庄野さんによると、2月15日現在不法電波による検挙は60数件に達していた。スパイと疑われた場合は拘置所に入れられるケースもあった。嘆願書をもって法務省などにもたびたび陳情したが、この運動は結果的には成果がなかった。

[免許再開と電波監理局との交渉] 

一方「アマチュア無線再開」の嘆願書提出者に対しては、4月4日にGHQから「アマチュア無線禁止の覚書を解除したので、日本政府と交渉されたし」という返書が送られた。返書を受け取ったハム志望者は、本人個人宛てに丁寧な返事が届く米国の民主主義を知り、感動した。庄野さんは「返書をもらった人々はアメリカの民衆政策の一端に触れることができたはずだ」と、平成4年8月発行の「CQ ham radio」に思い出を寄せている。

全国の申請者にGHQから届いた丁寧な手紙

免許再開が間近に迫るにともない、庄野さんは資料を持って青山にあった電波監理局に毎日のように通った。職場が近かったことや、同じ公務員としての思いからであった。管理局も慣れない免許行政に苦心していた。担当官と力を合わせてアマチュア無線免許再開に当たっての関連事項を決めていった。

コールエリアは「監理局が10あるので1からにしたらどうか」と提案すると「はタイプで打てない」という。庄野さんは「0を打って、一字戻して/を重ねれば良い」と念を押す。プリフィックスはそれまで米軍ハムが使用していたJAを当然のことながら返してもらうことにし、さらにサフィックスは2桁のAAからに決まった。戦前のコールは本人が免許を取ったら以前のサフィクスが取れるようにしよう、出力の最高は米国と同列の500Wにしよう、などと決めていった。だが、実際には昭和27年(1952年)中の免許取得者のうち、戦前のハムは15%ほどしかなく、しかも、旧コールサインの要望は2人しかなかった。