[見切り発車] 

「問題は山積していた。しかし、今は見切り発車の時ではないかと結論した」と、庄野さんは当時を語る。その後、当然のように出願の先陣争いが始まった。出願者は10W機なら早く波が出せると思い、逓信側も検査が簡単だから小型局から免許しよう、といううわさが流れてきた。庄野さんは「あくまでも出願順に」と強く駄目押しをした。庄野さんは「結果的にJA1AAのコールになったが、やむを得ず責任を負うことにしました」という。

7月29日、全国の30局に予備免許が下された。ところが、発表になった官報では、意外にも北陸と東海がJA2、関東と信越がJA1となっていた。もっとも、関東、東海のサフィックスはAAから始め、信越と北陸はWAから始めるという区分であった。「あれほど念を押したのに」と、庄野さんは早速変更を申し入れた。

信越や北陸でも変更依頼運動が起き、結局、信越がJA0、北陸がJA9に変えられたのは昭和29年(1954年)12月になってからであった。庄野さんは、このような一連の戦後の再開活動について「私はあくまでもピンチヒッターでした」と、自らの立場を振り返っている。「戦後早々からのJARLの活動と、各方面からの強力な支援の結果、時満ちて再開が果たされたから」と説明している。

JARLとは別であったが、JDXRCを結成した市川さんもSWL活動を通じて再開を促進した。同クラブが設立されたのは昭和25(1950)年12月であった。会員は13名で出発し、毎月クラブ報を発行してクラブ員の受信報告が掲載された。クラブ員の熱意は極めて高く、52年(1977年)には20名がハムとなった。

昭和29年当時の庄野さんのシャック

[庄野さんの開局] 

7月29日の予備免許は、全国30局に対してであったが「意外にも、100W以上の免許は村井洪(JA1AC)さんの500Wと、私の200Wだけであった」と、庄野さんは後に書いている。8月10日には早くも中山爽(JA1AF)さん、島伊三治(JA3AA)さん、石田太一郎(JA8AB)さんが試験電波を発射し、27日には市川洋(JA1AB)さん、小宮幸雄(JA1AH)さん、谷川浄(JA1AJ)さん、中山さん、島さんが本免許を得た。

庄野さんは標準ラックやパネル作りから初めたため、送信機作りが遅れていた。送信機は終段に100TH、発振に6L6Gを使った。6L6Gは戦中に南京のラジオ店で見つけ「内地に戻ったら使う予定をしていたものであったが、その時には、すでにアマチュア無線は禁止されており、実に11年ぶりに使うことになった思い出のある球だった」と、懐かしむ。

庄野さんは、8月27日には局設備の工事落成期限を延期する申請を行ない、結局、落成検査に合格したのは11月21日で、JA1AH・小宮さんと14MHzで試験交信。12月19日にようやく本免許が下りる。その後の庄野さんの活動は活発であった。「出勤時間が10時であることから、夜更けまでキーをたたくことができた」という。「その頃JA局は海外から珍しがられたものの、サンスポット(太陽の黒点数)は最低で、伝播状態は悪かった。」と、当時を振り返っていう。

それでも、庄野さんは昭和28年(1953年)の5月25日に「J5CCカップ」で記録をつくる。「J5CCカップ」は、戦前活躍した鹿児島の堀口文雄さんのコールサインにちなんだもので、この年の5月に関西支部のDXer達が発起人となって制定した。1日のうちでWAC(6大陸との交信)を完成した時間を競うもので、2日にまたがってはならないことになっていた。また、交信は偶発的なものに限られている。

「J5CCカップ」のトップとなり、送られたカップと局名入りバックル

庄野さんの記録は1時間30分だったが、さらに翌29年6月27日に1時間19分の記録をつくっている。ちなみに、現在の記録は5分という信じがたいレベルである。11月18日には、14MHz、CWでDXCC(100国以上との交信)のメンバーとなる。戦後のわが国では初めての快挙であり、世界では2036番目であった。WAC―YL(6大陸のYLとの交信、うち5局はCW)は昭和30年に達成。アジアで初めて、世界では6番目であった。この頃は、まだ女性ハムの数は少なかった。

次いで、WAZ(世界40地域との交信)に挑戦し、昭和33年(1958年)に達成。国内では3番目、世界では401番目であった。庄野さんは、担当していた「CQ ham Radio」28年1、2月号の「DX欄」で、全国のハムの活躍振りを報告している。とくに目を引くのは、DXCCに取り組む主なハムの交信国数と、QSLカード枚数のリストである。

リストは昭和27年12月20日現在であり、各局からヒヤリングしてまとめられたが、相当な苦労があったものと思われる。交信国数で11番目、QSLカードで14番目の庄野さんは、この後相当に追い込んだことになる。余談になるが、庄野さんは、後に発行される「Rainbow News」にたびたび名文を書いているが、この時のレポートも長い間、閉じ込められていたハム志望者が、再開された無線を通じて嬉々として躍動している姿が目に見える素晴らしい内容となっている。

戦後初の「DXCC」のアワード