JA1AA 庄野久男氏
No.22 庄野さんのアマチュア無線活動(2)
[JARLでの活動]
庄野さんはハム活動も活発に行なったが、同時にJARLを発展させる活動にも積極的であった。再開後の初のJARL総会は昭和27年11月23日に、東工大の喫茶店「角笛」で開かれ、庄野さんは副理事長・支部連絡担当に就任した。JARLの支部は、関東、関西、東北、東海の4支部がJARL再結成とともに発足していたが、昭和28年(1953年)1月に10エリアすべてに支部が設立された。
庄野さんは支部の設置について「アマチュア局は、一国一城の主であり全国に分散している。各支部の代表者はその意見を取りまとめるとともに、支部のあり方を考えていただき、連盟の理事として理事会の場で意見を述べる組織を作りたかった」と、その当時を振り返る。
JARLが社団法人となった昭和34年(1959年)から副会長に就任、36年(1961年)まで務めた。この期間でのJARLの主な動きを拾ってみると、28年5月に第1回のQSOパーティが開かれ、4バンド部門での優勝者が決まった。同じ5月には3.5MHzのスポット割り当てが追加され、7月には第1回のVHFコンテストが開催されている。
アワード制定も活発に行なわれ、29年3月にWAJA(全国47都道府県との交信)JCC(国内100-600都市との交信)、AJD(国内10エリアとの交信)が制定される。50W以下の移動運用が許可されたのが30年2月であり、31年8月には「エマージェンシー・コンテスト」が実施された。翌32年5月にはIGY(國際地球観測年)に協力するJA1IGY局が本免許となっている。
庄野さんにとって、忘れられないのは35年にJARLの法人化記念と同時に、アジア大陸のハムの振興のために創設した「オールアジアコンテスト」であった。アジアのハム達は他大陸と、アジア以外の大陸のハムはアジア大陸との交信を競うものであり、JARL主催のアワードとしては初のグローバルアワードであった。また、それまでと大きく異なるのは「交歓ナンバーはRSTの次に年齢を記入することであり、それが人気になりました。もちろんYLはすべて00で良いことにしました」と、庄野さん。
昭和33年10月、日本赤社にあったJARL無線室をおたずねになった皇太子殿下(現天皇陛下)に、庄野さんが説明役となった。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より
12月には7100-7150KHzが許可された。33年になると5月に電信級、電話級アマチュア無線技士の資格ができ、従事者免許が終身免許に変更され、さらに、免許手続き検査が簡便化された。翌34年になると6月に社団法人となったJARLの創立総会が行なわれ、同時に終身会員制がスタートしている。
昭和34年6月、東京で社団法人JARL設立総会が開かれた。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より
[気象レーダーからサイクロトロン開発へ]
庄野さんの勤務はどうだったのか。戦後、航空研究所から理工学研究所に替った後、庄野さんは昭和19年(1944年)に発見した雷からのレーダーエコーの研究を再開した。関東全域の観測結果をまとめ、国内外で発表したところ、世界初の気象レーダーとして評価された。中央気象台と電波研支援のプロジェクトが発足され、昭和25年(1950年)には正式に実験局が出願を行なわれた。
しかし、朝鮮動乱の勃発とともにレーダー研究は禁止となり、研究は停止させられ、また、國際学会での発表も禁止となった。終戦直後に次ぐ2度目のGHQの指令による中断であった。庄野さんは「幸い、気象レーダーは戦時中に井上研究室で共同研究をした三菱電機の樫村グループと無線電信講習所出身の藤原寛人(ペンネーム新田次郎)さんら中央気象台の情熱で、後に富士山頂に、世界初の実用気象レーダーとして活躍することになった」と、その後の推移を喜ぶ。
レーダー研究を停止させられた研究室では、研究の主流が原子核加速器で初の加変エネルギーのサイクロトロン開発に決まり、庄野さんもその開発に参加した。その成果もあり、昭和29年(1954年)に東京・田無市に国立の原子核研究所を建設することになり、建設計画に加わった。この研究所には東大の宇宙線研究グループが合流し、庄野さんは得意の無線通信技術を生かす。宇宙線を捕らえるためバルーンに原子核乾板を積んで成層圏に上げ、太平洋に飛ばして回収することになった。この回収実験に140MHzの無線で支援した。
昭和31年(1956年)に原子力委員会が発足し、32年8月に輸入した研究用原子炉がその後、茨城県・東海村に建設され、次いで35年(1960年)には国産1号炉建設計画が始まり、庄野さんは強く参加を要請された。しかし、この頃庄野さんは別の研究で渡米希望をもっていた。この時の原子力研究所理事長・研究所長は、前に原子核研究所の所長であったこともあり「国産原子炉を立ち上げた後に米国の原子核研究所に行くのはどうかと、提案してれた」という。しかし、庄野さんは奥さんを亡くされてほどない時であり、子供を残しての転勤に不安をもっていた。