[財団法人・小林理学研究所主任研究員] 

東海村への移動に悩んでいた庄野さんに進路を決定する出来事が起こった。無線電信講習所の後輩であった小野寺広洋さんの葬儀の帰途であった。戦後、胸を病んで療養していた小野寺さんは病気回復後、故郷の館山市で結婚し印刷業を営んでいた。結婚式で媒酌人を務めた庄野さんは小野寺さんにQSLカードの印刷を引き受けることを勧め、昭和31年(1956年)、庄野さんも自身でデザインしたQSLカードの印刷を依頼する。

庄野さんの呼びかけで、多くのハムが小野寺印刷にカードを依頼するようになり、QSLカード印刷専門の第1号となった。ところが、小野寺さんは昭和35年(1960年)2月に急逝、庄野さんは悲しみをこらえて葬儀に出席、親友との最後の別れをする。その帰りの汽車の中で目撃したのは、帽子を差し出しながら「高校に進みたいので、学費が必要なのです」と乗客に施しを求めている目の不自由な生徒の姿であった。

庄野さんがデザイン、小野さんに印刷を依頼したQSLカード

[障害者を助けなさい] 

実は庄野さんは原子核研究所時代、誰もが体験するようなことを通勤バスの中で知った。それは、樫の木の並木道をバスが通る時、目をつぶっていても太陽光をさえぎる木立の陰陽によって、木の存在を感知できることだった。「目をつぶっていても光を感じて物の存在がわかる、ということは目の不自由な人にとってのヒントではないか」と、その後考えつづけていた。

また、米国のベル研究所が発行していた「ベル・テクニカル・ジャーナル」誌で、喉頭癌手術により、発声のできない人でも外部から振動を与えて、共鳴させて発声を得ることができるのを知った。庄野さんは「目や耳、声の不自由な人も自由に生活できるのではないか」と、思い続けていたのである。

汽車の中で、目の不自由な学生に幾ばくかのお金を差し出した後、研究所にも耳の不自由な2人の子息をもつ教授がいたことなどを思い出しながら汽車に揺られていた。その時、庄野さんの耳に「障害をもった人のために働きなさい」という声が届く。戦場、そしてアマチュア無線再開時に次いで3回目の「神の啓示」であった。それを聞いて、庄野さんは、数年前から強い招きのあった東京・国分寺にある財団法人・小林理学研究所に転進することを決意する。

小林理学研究所は、昭和14年(1939年)に、小林鉱業の小林采男社長が所有していた株式を寄付、それを資金に、東大の教授グループが中心となって設立されたもので、昭和15年に文部省から財団法人の認可を得ている。小林社長は、朝鮮半島で鉱山事業を引き継ぎ、現地の従業員の絶大な信頼を得て、事業を大成功させていた。

研究所は物理学の基礎及び応用研究を目指して発足し、昭和19年(1944年)には水中聴音器の開発に成功し、またロッシェル塩の人口培養、加工法も開発、国からの要請を受けて、その生産、販売を目的に小林理研製作所を傘下に設立していた。同研究所には、戦中、戦後初期を通して優秀な人材が集まったが、戦後には世界での存在意義などを検討し、音響・振動関連の研究に集中、騒音振動、その後、建築音響などの分野では権威ある研究所になっていった。

[熾烈な補聴器開発競争] 

小林理学研究所に移り、手がけた最初の研究は目の不自由な人のための機器の開発であった。初の光を音に変換する形の「盲人用メガネ」を開発、昭和36年(1961年)10月に音響学会で発表。テレビにもたびたび出演して紹介された。一方、小林理研製作所でも数多くの開発テーマが待ち受けており、約一年半後に同製作所に転出する。同製作所は昭和35年(1950年)に『リオン』と社名を変え、補聴器や騒音計、振動計ではわが国のトップメーカーであった。

仕事は開発から製造まで多忙であったが、とくに補聴器の開発では欧米と競い合った。昭和53年(1978年)からは、厚生省と通産省との合同プロジェクトに加わり、補聴器を体内に埋め込む開発を統括担当。欧米と5年間の激しい開発競争の結果、世界初の成果をあげている。このプロジェクトが終了した昭和58年(1983年)、再び盲人用機器の開発に力を入れるため、庄野さんは役員を辞任する。

[QRP活動] 

庄野さんの現在の局免許は出力100Wである。ところが、今、庄野さんが取り組んでいるのはQRPである。QRPとは本来「こちらの送信機出力を落しましょうか」という意味のQ符号(ハム用語)であるが、それから転じて「小出力交信」にも使われている。庄野さんがQRPに興味をもったのは古く、昭和31年の頃であった。

当時、庄野さんは「CQ ham radio」の「DX欄」の担当を続けていた。14MHzで200~500W出力のCWの運用をしていたが、出力を極力絞ってもオーストラリアやニュージーランドと余裕をもって交信できた。また、この頃、JARLと機関誌の交換をしていたRGBS(英国アマチュア無線協会)の機関誌に「QRPコンテストのことが良く載っていまして、0.5Wクラスの人がよく優勝してました」と、当時を語っている。

庄野さんはQRP用のQSLカードを何種類か作成した