当時の世界は列強(軍事力をもつ超大国)による世界支配の時代であり、日本も昭和6年(1931年)の満州事変、12年の日中戦争を経て戦争に巻き込まれていった。日本は世界列強の一つとして発展途上国や他の列強諸国から警戒される立場となった。子供にもその緊迫感は伝わってきており、夜に英語で通信するのはスパイではないかと考えた。そこで、英語の分かる人に聴いてもらったところ、「多分アマチュア無線というものではないか」と教えてくれた。

詳しいことは分からないまでも、これだけ強力に電波が入るのは近くから発信されており、送信のアンテナがあるはずだと思い近くを探してみた。それまで気が付かなかったが、私の家から約100メートル離れている所にそれはあった。立派な西洋館の建物であり、アンテナも巨大であった。

アマチュア無線は明治の末から大正の初めにかけて欧米諸国で始まっていた。米国では大正元年(1912年)に無線法が制定され、3年にはARRL(アマチュア無線連盟)が発足していた。日本国内では大正11年に最初の免許が行われて以来、新聞各社による公開実験が相次ぎ、また、関連雑誌も発行され始めた。

大正15年(1925年)6月にはアマチュア無線家37名が参加してJARL(日本アマチュア無線連盟)が発足した。JARLは昭和6年に第一回の全国大会を開催し、その後も毎年開催、徐々に会員も増加を辿っていくが、その過程は私がまだ知らない時代であった。

近くにアンテナを見つけた頃、私は学習院の中学生になっていた。勇気を奮い起こしてたずねて行き「実はすぐ近くで交信を聞いています。どんな装置でやっているのですか」とお聞きした。その方のお名前は石川源光さんといい、コールサイン(呼び出し符号)はJ2NFということが分かった。それ以上にびっくりしたことは、石川さんが同じ学習院の高等科の学生であったことだった。

その後は毎晩石川先輩の家に入り浸って、いろいろなことを教えていただいた。その一つが世界の先進国は自国のPRをねらって、海外の国に向けて「国際放送」を行っており、それは短波帯で行われているということであった。

なかでもドイツはベルリンオリンピックの開催を控えて国威掲揚のために送信出力を従来の5KWから50KWに増力しており、はっきりと聴こえていた。初めての海外からの放送受信に興奮し、石川先輩に短波受信機の作り方を教えていただくことになった。

当時の国産の真空管を購入し、1V1(高周波1段・低周波1段)や1V2(高周波1段・低周波2段)の受信機を作った。石川先輩と親しくなって分かったことは当時学習院にはラジオ受信に詳しい人が多かったことである。今、想像すると受信機を作るためには金がかかるが、学習院の学生は経済的に恵まれていたためだと思う。

3WW谷川さんの0-V-1受信機。(社)日本アマチュア無線連盟発行「アマチュア無線のあゆみ」より。

それでも、当時の学習院には「無線クラブ」とか「ラジオクラブ」というようなクラブはなかった。運動クラブはあったが、いわゆる文化系クラブは許されなかった。それだけ、戦時色が強まっていたからである。ちなみに私は射撃部に入部したが、ある時からはほぼ毎日、38年式歩兵銃(明治38年に最終的に開発された歩兵が使う銃)で実弾を撃つ射撃の練習に明け暮れるようになった。