太平洋戦争が近づくにつれてマチュア無線に対する社会の風当たりはきびしくなる一方であった。先に触れたが、一般の人が聞くことのない周波数帯で、しかも夜間に時には英語で交信しているため、あらぬ疑いをかけられるのはやむを得なかったと思う。当時、私は単に短波を聴くだけであったため疑われることはなかった。この頃には、私は一晩に短波受信機を簡単に1台程度は組み立てるまでになっていた。

学校生活にも戦時色が強まり体を鍛えるための教科が増え、朝から晩まで泳ぐ日もあった。校内に緊急放送を行う必要から「放送部」が発足した。出力真空管の2A3を使い、放送用アンプを作るなど活躍した記憶がある。

その一方で射撃の腕前も上がっていった。軍隊に入ったら「狙撃手」になっていたのではないかと今思うほどである。アマチュア無線家も戦時に対応することが求められるようになり、各地で非常訓練が行われるようになり、各地に発足していた「愛国無線通信隊」は、その後「国防無線隊」と名称が変更され、防空訓練などで活躍することになる。

太平洋戦争前、各地のアマチュア無線家は国防無線隊に所属し活躍した。写真は当時訓練に使用された鉢巻きと名札。

昭和16年(1941年)12月8日、ハワイへの奇襲攻撃により太平洋戦争が始まった。この年の4月には創立15周年の記念大会を開催したJARLであったが、12月8日に直ちに所有している無線機は軍と逓信省(現在の総務省)によって使用できないよう封印される。私は、局免許は持っていなかったもののJARLに出入りしていたため、軍の依頼を受けた56MHzの電波通信監視用機器を作る手伝いを始めた。JARLでは、防空監視の船舶に載せる通信機を何100台と作った。

昭和19年になると授業も徐々になくなり、学習院の高等科の学生は下丸子にあった東京無線(株)に勤労動員(学生が動員されて工場などで働くこと)で通勤することになった。この年の半ばを過ぎると、学習院自体が無線機生産の工場になった。経験のあった私は検査係になった。

その後、2度にわたる東京大空襲で東京は半分が焼け、学習院の校舎も焼けてしまった。私は石川先輩に連れられて、海軍の技術研究所に入り無線機関連の開発を手伝うことになった。当初、勤務場所は東京の目黒であったが、空襲の恐れがあることから栃木県の日光に疎開する。日光の由緒あるホテルを全館使い30センチレーダーの開発の手伝いをした。

当事の日本のレーダー技術は欧米に比較して遅れており、潜水艦で運んできたドイツ製のレーダーを分析して国産化を図ろうとしていた。見るもの、聞くもののすべてが珍しく、スイッチがカギと一体となっていたのを見てびっくりした記憶がある。

もう一つの驚きは、欧米のエレクトロニクス関連の雑誌や書籍が手に入ることであった。もちろん、その頃には欧米諸国も高度な技術情報は掲載していなかったが、それでも、欧米の技術力との差を感じさせられた。同時に戦争の相手国の書籍を手に入れることのできる海軍の力には感心した。聞くと、中立国経由で手に入れているらしかった。