海軍技術研究所分室では、旋盤、フライス盤などの設備を置き板金加工、ネジ切りまでも行った。ただ、当時の真空管は粗悪品が多く「ハイ・GM管」などは10本のうち動くのは半分程度であった。恐らく、戦時下の物資不足により素材も不良品が増え、加えて、量産に迫られ熟練工が不足していたためだろう。また、高圧の絶縁が難しく2万Vを加えると絶縁材のベークライトに導電線が走り、その焼け跡をいくら削っても取れないなど苦労も多かった。結局、最後までこの問題は解決できなかった。

食事は主食には恵まれていたが、ろくなおかずはなく、1日12時間以上の作業に疲れ、フラフラになる毎日であった。時には軍として配給されていたタバコを持って近くの下市町まで出掛け、陸軍の部隊と物々交換をし、食料品を手に入れたこともあった。それでも夜、仕事が終わってからはエレクトロニクス関連の本を読むことができた。この時期に無線通信の勉強ができたことがその後に役立った。

昭和20年(1945年)8月15日には終戦となるが、その10日前頃から雲行きがおかしいことに薄々感じていた。一般には短波放送を聴くことは禁じられていたが、海軍の研究所では必要上毎日聴いており、ハワイのホノルル放送KRHOが「日本はポツダム宣言(日本が降伏するのに関する取決)を受諾する予定」と放送していた。

事実、8月15日には「玉音放送」(天皇陛下ご自身による放送)があり負けたことを知った。米国の放送は日本軍に対して「機体を緑色に塗り、白十字のマークを付けた飛行機で軍使を送れ」と呼びかけている。これに対し、日本軍は「降伏を認めない一部の軍人が妨害することが考えられるのでもうしばらく待って欲しい」などと答えている。それを聴いて敗戦を実感した。

敗戦を知って、研究所では敗戦に憤り軍刀を振り回す者もあり、騒然とした雰囲気となった。日清戦争、日露戦争に勝ち、第一次世界大戦では連合軍に加わり「勝ち組」となるなど、日本は「不敗・不滅」の神州(神の国)と固く信じていた軍人、国民も多かったからである。

結局、海軍省にどう対応すべきかの指令をもらいに行くことになり、トラックに乗って出発した。私もお供し、夜の7時か8時頃海軍省に到着したが、海軍省の中庭には、建物と同じ高さと思われるほどにまで書類が積まれ炎が上がっている。それまでの戦争関連の書類をすべて焼却し証拠隠滅を図るためである。受け取った指令は「開発中の機器類や残っている物資をことごとく破棄せよ」というものであった。すぐに日光に戻り、レーダーや真空管を処分することになったが、それには相当苦労した。

それまで使っていたホテルは「きれいにして出ろ」といわれ、掃除には苦労した。その後、現地で解散となったが、われわれはしばらく近くの旅館に潜んで様子を見ることにした。2週間もすると進駐軍はジープでやってきてホテルを接収したが、惜しいことにその後ほどなくして火事を起こしホテルを全焼してしまった。証拠も消えたことにほっとした半面、あれだけ立派な木造ホテルであり残念だった。

太平洋戦争中に日本軍が使用した無線機。94式6号無線機。写真は昭和20年製の23号型。