幸い東京都内にあった自宅は戦災を免れ、10月11日になると学習院から「戻って来い」との連絡があり登校した。校舎は焼けてしまっており、焼け残った古い乃木院長官舎(乃木希典さん=日露戦争時の陸軍大将で、その後学習院の院長を務め、その時に使用していた官舎)を教室にし、机は縁台など集められるものを集めて代用した。

ところが、始業、終業の合図の方法がない。そこでベルを作ることにし、あり合わせの材料で100V電圧のベルを作り上げた。100V作動のベルなど聞いたことは無かったが、できあがって使ってみると、鳴るたびに生徒がびっくりするほどの大きな音量となってしまった。

その頃の学制(教育制度)は戦前のシステムから戦時体制となり、再び戦後に改革があり、我々世代は複雑な過程を辿った。結局、中学に5年、高等科に3年間在学し23年に卒業した。1年前までは、一部の大学の学部を除き推薦により大学へ進学できたが、改革により急に入学試験を受けざるをえなくなった。受験勉強をする間は余り無かったが、早稲田大学理工学部電気工学に入ることができた。競争率は34倍と記憶している。入学試験問題で山が当たっての合格だった。

戦後、JARL(日本アマチュア無線連盟)の再建への動きは早かった。昭和20年(1945年)10月に東京逓信局からアマチュア無線再開についての意見を求められ、12月にJARLは米国のFCC(連邦通信委員会)のルールを参考にして、アマチュア無線規則案を作成して逓信院の電波局に提出。翌年2月逓信院は検討を開始した。

そして、8月にはJARL再結成の全国大会が東京・新橋の蔵前工業会館で開かれ、会長には八木アンテナの開発で世界的に知られた八木秀次さん、理事長には矢木太郎さんが選ばれた。この頃は、早期にアマチュア無線再開許可が行われそうな雰囲気が漂っていた。

日本に進駐してきた連合軍のなかには当然のことながらハム(アマチュア無線家)がおり、彼らは焼け残った立派な住宅を収用し、電波を出している。それを聴きながら日本のハム達は指をくわえていなければならなかった。アマチュア関係の雑誌も発刊が始まり、JARLも21年に「CQ ham radio」を発刊した。

CQ ham radioの新刊号と次号。戦後、知識に飢えていただけに当初はよく売れた。

また、せめて再開を前に定款や規則を決めようと、22年には第2回の総会が東京工大で開催された。さらに、24年には、第一回アマチュア通信技術講習会を開き、アマチュア無線、関連略語、Q符号の説明などが行われた。また、SWL(短波放送受信者)の振興のために、受信カードコンクールも開催された。このような活発な活動は、一刻も早く免許再開を望むハムの気持ちの高ぶりからでもあった。

ドイツなど他の敗戦国ではアマチュア無線は23年には許可されていたが、日本でのアマチュア無線再開は期待に反して進まなかった。進駐軍の局はKAのコールサインで運用されており、そのオペレーターにも早期再開を働きかけたりもした。

しかし、やがて勃発することになる朝鮮戦争の兆候も関係し、進駐軍が許可するのは対日講和条約(日本の独立を承認する条約)後になるとの話が伝わってきた。事実、講和条約の締結が迫ってくると準備のための動きが始まった。

25年の電波3法(放送法、電波法、電波管理委員会設置法)が成立したのを受けて、26年6月にはアマチュアバンドの割り当てが決定する。同じ月には第一回のアマチュア無線技士国家試験が実施された。合格者は1級47名、2級59名であった。