この国家試験制度は世界的にも画期的なものとなった。世界のアマチュア無線の条件は、電鍵(信号を送るキー)を使用してのモールス信号で通信(これをCW=電信という)ができることであった。ところが、日本はあえてCW通信のできるクラスを1級とし、CWができなくても音声のみの通信ができるクラスを2級として許可した。

電鍵(キー) 左が戦前、右が最新の商品。戦後のアマチュア無線再開までは、これを使用したCW(電信)ができなければ資格取得はできなかった。

これには背景があった。25年の初め、JARLは新しい免許制度を検討する会議を開催した。様々な意見が出されたが、その一つとして2クラスに分ける案が生まれた。もちろん、新案は世界の動きに逆らうものだという反対意見も強かった。土曜日の午後に始まった会議は夜になっても結論が出ず、翌日曜日の朝から再開し、ようやく午後の3時に結論が出たとの記憶がある。

新制度は郵政省(現総務省)とJARLとが何カ月も相談して作ったものであるが、新生日本の新しい姿を認識してできたものであった。「日本の敗戦の理由の一つがエレクトロニクス技術、とりわけ無線通信技術の遅れであり、戦後はそれを取り戻す必要がある。

そのためには、アマチュア無線を盛んにし、若年層のエレクトロニクス技術力を培養することが大切」と考えていた。このため「電信(CW)を知らなくても、エレクトロニクスの技術の修得には問題ない」と2級が生まれた。しばらくは、欧米諸国からは「日本のアマチュア無線制度はおかしい」とも批判された。しかし、その後、日本が『アマチュア無線大国』となり、さらにエレクトロニクス技術では世界のトップレベルとなった原点が、この新制度にあったことに間違いはない。

2級の制定はRR(国際電気通信条約のは無線通信規則)の条文では許されないが「海外に混信を与えなければ良い」との国内法を優先することで乗り切った。これを承認してくれた西崎太郎さんを始め、当時の郵政省幹部の英断を今更ながら感謝している。

私は、この年(昭和26年)の3月に早稲田大学を卒業し、6月の第一回国家試験では斎藤健さんと机を並べて2級を受験し合格。翌27年に進駐軍は「アマチュア無線禁止に関する覚え書き」の解除を日本政府に通告、正式に再開が認められることになった。

7月には免許申請者30名に予備免許が与えられ、8月には5局に本免許、さらに12月には96局に本免許が与えられた。ところが、7月の予備免許に申請した私の名前がない。おかしいと思い青山にあった電波監理局に駆け込み、係官に問いただしたが「そんな申請は受けていない」と言う。

私は「自分で届けに来たので、そんなことはない」と反論し、言い合いになった。係官は机の引き出しを調べてくれ、その結果、申請書が見つかり「この次、1番に許可するので勘弁して欲しい」ということになった。その係官とはその後親しい関係を続けることになる。27年暮れ、私のJA1AN局が誕生する。