待ち焦がれていた無線再開となり、予想されていたメンバーが受験し合格した。しかし、その後、予想に反してハムの数は増加しなかった。理由はいくつかあったと思うが、そのひとつが受験の機会が4月と10月の年間2回であり、受験者は半年待たなければならないことであった。

一方、JARLが21年(1946年)に発刊した「CQ ham radio」は、発刊後しばらくは売れに売れた。当初、多くの人達が通信関連の技術に飢えており、また、誌面も戦時中に米国で発行されていたQSTやエレクトロニクス誌などから、転載するなど内容も豊富であった。

これらの転載に当たって進駐軍は自由にやって良いとのお墨付きをくれた。同時に、米国の「アマチュア無線ハンドブック」も翻訳して、ある雑誌に転載することが許されたが、アマチュア無線を目指す人が基礎を勉強するのに大変役立った。このため、当初は東京駅丸の内側にあった丸ビルに事務所を置くほどの発展振りであった。

ところが、期待していた免許の再開になかなか許可がでない。しかも、雑誌の中身も翻訳する材料がなくなってきたのにともないレベルが落ち、おもしろくなくなっていった。事務所も銀座に移り、さらに神田へと移転、場末の狭い場所に居を構えざるを得なくなった。

品薄になるほどの売れ行きであった雑誌は、3、4年後には返本の山になり、このままではJARLも共倒れになりそうだということから、出版部門を分離させることになった。「味の素」経営の一族である鈴木松雄さんが引き受けて下さることになり、CQ出版を設立、表紙に「JARL」のロゴを記載して発行された。

かっては、JARLの機関紙であったことを知ってもらうためであった。しかし、鈴木さんも2、3年手掛けられたがうまくいかず、27年に小澤俊昭さん、吉川長一さんが再建に乗り出し、大変な努力の結果、赤字を解消して立派な出版社に発展された。現在、両氏ともにCQ出版の最高顧問となっておられる。

このように、アマチュア無線再開後の状況は厳しかったが、逆に、電子部品やアンテナ類は豊富に出回っていた。神田地区にジャンク店が続々と誕生し、旧軍隊で使用した国産品のほか、米軍の払い下げの部品類が並べられた。当時、ラジオは今日のようにメーカーが生産しておらず、組み立て技術を持った一般の人が作り、欲しい人に供給するのが一般的であった。

その中から、今日の家電販売店が生まれている。このため、家電販売店は当時は「ラジオ屋」と呼ばれていた。これらのアマチュアや「ラジオ屋」は、組み立てに使う部品を神田で買うようになり、神田のジャンク店は増え続け、九段の方向にかけて町並が延びていった。そこには、全く戦災の被害に遭っていないアンテナなどもあり、何か使えるものがないかと毎日のように通った。また、それが楽しかった。現在は、神田周辺には当時の面影はないが、今でもその当時のジャンク店をその場所とともに覚えている。

戦後の神田ジャンク街