JARLは昭和30年(1955年)にIARU(国際アマチュア無線連合)に復帰した。IARUは大正14年にパリで会議を開き発足したものであり、わが国はその時に加盟していたが、太平洋戦争中とその後の再開までの期間に「活動していない」ことを理由に脱退させられていた。国際的には復帰したものの、国内のアマチュア無線局は、関係者が再開に努力したにもかかわらず増加は予想外に少なかった。

昭和29年に名古屋・中日新聞社で開かれたJARL総会。当時はこのような総会風景だった。

アマチュア無線への関心が高まり、局が増加したのは32年のIGY(国際地球観測年)にわが国が参加したのが契機であった。「国際地球観測年」は、世界の国々が協力して気象など地球の現在の姿、地球を取り巻く環境などを徹底調査するのが目的であるが、JARLにも郵政省電波監理局長より協力の依頼があった。

早速、JARLは連日のように会議を開きIGYへの協力を検討した。その結果、50MHz超短波の異常伝搬の調査、米国・ソ連の人工衛星電波観測、世界日(同時観測のための設定日)に対する通報援助、南極観測隊との補助連絡を行うことを決めた。

郵政省に協力を依頼したのは日本学術会議であったため、この具体時な計画は同会議の茅誠司会長にも報告した。茅会長はJARLの協力に感謝の言葉を述べるとともに「ハム」と聞いて、冗談とも本気とも取れることをおっしゃった。「食べるハムの他にもハムがあるのですか」と。

この計画に沿ってJARLは、日本アマチュア無線連盟中央局JA1RL、JA1IGYを設け、非常時に対応するとともに、JA1IGY局は50.5MHzの電波を自動送信した。南極には昭和基地が設けられ、越冬観測隊が派遣されたがアマチュア局JA1JGが駐在し、基地の整備が終了後、業務の合間に交信を始めた。

南極との交信には、隊員と日本の留守家族との非公式の会話が実現できた。南極基地のオペレーターの後ろに隊員が、日本側の交信局のオペレーターの後ろに隊員の家族が立ち、勝手にしゃべってもらった。本来は、免許をもつ人しかしゃべれないのだが、バックノイズ(後ろの雑音)ということで処理された。一方の人工衛星の電波受信も予定されていた周波数が変更されたりしたが、受信に成功した。

南極の観測隊からの交信は、その後のアマ無線の普及に貢献した。写真は南極の石とサンゴ。

このような南極との交信や、開催された女性を対象としたアマチュア無線教室などが話題となり、アマチュア無線の人気が高まったが、今度は逆に電波監理局の処理能力が追いつかなくなっていった。

国家試験の受験申請書が常に机の上に山積しており、同時に試験場の確保や試験監督官の人数も不足がちになってきた。例えば、1地域で3000人の受験者があれば、30人収容の試験場が100教室必要となる。1教室2名の試験官が条件のため、最低でも200人が必要となる。郵政省は、一時にこのような動員はできないと音をあげるようになった。

JARLはその解決のために、試験を土曜、日曜を含め常時行うように提案した。一方、郵政省はJARLを法人化し、アマチュア無線に関する業務をJARLに大幅に移管することを計画。これを受けて、JARLは昭和33年から準備を開始した。