アマチュア無線に対する関心が高まるのに伴い,電波監理局の処理能力が追いつかなくなっていった。国家試験の受験申請書が常に机の上に山積しており、また、試験場の確保や試験監督官の人数も不足してきた。たとえば、1地域で3000人の受験者があると、30人収容の試験場が100教室必要であり、1教室2名の試験官が条件のため、最低でも200名が必要となる。電波監理局は1時にそのような動員はできないと音を上げるようになった。

JARLはその解決のために試験を土曜、日曜を含め常時行うように提案したが、その提案が大きな変革をもたらすことになる。郵政省はJARLを法人化し、アマチュア無線に関する業務をJARLに大幅に移管することを計画。JARLは33年から法人化の検討を始めた。

翌34年5月、法人化に移行するための全国理事会が開かれ、35年6月にJARL解散と、社団法人JARLの創立総会が開かれた。社団法人化に伴いJARLに大きく3つの事業が課せられることになった。

まず、初級アマチュア局と出力10W以下無線設備はJARLが認定を行い、それまでの電波監理局による落成検査がなくなった。また、その認定検査はJARL本部による書類だけの審査でもよいことになった。次いで、国家試験については、JARLの各支部が試験日時、場所を決定すれば電監が認め、電監の係官が必ずしも立ち会う必要がなく行われることになった。さらに、JARLメンバー局をJARLが監査し周波数や質の悪い電波の監査を行うことになった。

簡単にいうとアマチュア無線監理業務の民営化であった。この当時のJARL会員は、約6000名であったが、新制度による受験者の数は急増、35年4月の受験者数は、総数約16800名に達し、臨時試験場を設けるなどの対応に迫られた。女性や若年者の受験も増加したのも特徴であった。

(社)JARL創立を記念して発行された会員証 JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より。

少し年数が溯るが、ここでアマチュア無線と災害時の対応について記してみたい。戦後初のハムが誕生した翌昭和28年はどういうわけか災害の多い年となった。6.7月の梅雨時期には北九州、紀伊半島、近畿地区に集中豪雨があり、9月には台風13号が鹿児島県の薩摩半島に上陸した。

もちろん、電話網は今日のように普及していなかったが、その電話網もずたずたに切断され、警察電話、鉄道電話も寸断されてしまった。無線は警察無線などが一部で使用されている程度であり、通信は途絶状態であった。そこで、新聞・ラジオ局などのマスコミや、地方自治体は緊急連絡の方法をアマチュア無線に頼ってきた。

太平洋戦争により国土は荒れ果てており、そのためもあって風水害による被害はその後も続いた。その都度アマチュア局が活躍し、しばしば人命救助に貢献した。アマチュア局が増加するのに伴い、その果たす役割は高まり、地方自治体のアマチュア無線に対する依存度は高まっていった。

日赤本社にあったJARL中央局JA1RL局。昭和29年以降災害対策本部中央局などとして活躍。(昭和32年頃に撮影)