災害という緊急時だけに、アマチュア局も仕事を投げうち不眠不休でそれに応えた。自治体によっては、この非常時通信網を経常的な組織に組み込むところも現れ、災害時の出動が当然のように思われるようになっていった。このような事情を背景に、アマチュア局の中には、自治体に対し、事務所を設け、制服を作れ、2次災害発生の場合は補償せよなどの要望を出すところもでてきた。

自治体からはクレームが出始め、郵政省は災害時におけるアマチュア無線の貢献度を評価しつつも、難しい場合は非常通信を断っても良ことを認めてくれた。この結果、自治体からの過度の要求は無くなっていくとともに、災害時に使う防災無線のシステムもできあがっていった。

昭和39年6月16日に発生した新潟地震では、災害救助や報道関係の援助にアマチュア無線が大活躍---JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

とはいうものの非常時において、アマチュア無線にしかできない役割もあり、その後も極力、協力する体制が続けられてきた。最近では、平成7年の阪神大震災時の活動がある。戦後最大の地震に直面し、一般の人達の通信網は一部の公衆電話を除きマヒしてしまった。携帯電話やPHS電話の普及が始まっていたが、普及率は低かった。阪神間にロケーションしていたアマチュア局が大活躍したが、JARL本部も急遽ハンディ機を各メーカーのご協力を得て集め,被災地に送った。

この時のエピソードがある。被災地では一刻も早く連絡の手段を欲している。その事情を察していた電気通信監理局(前電波監理局)は「口頭で申請してくれたら、口頭で免許を行う」と、即座に約300局のコールサインをくれた。災害時にはアマチュア無線家も被災者となっているケースが多い。その中で生活を犠牲にし、ボランテアで非常時通信を行うことは大変であるが、今後ともできる限りの社会貢献はしたいというのが私たちの考えである。

昭和30年代になると、アマチュア局が増加するのに伴い、受信機や送信機の市販が増加してきた。戦前、戦後を通じてアマチュアは,すべて機器を自作してきた。販売店やカタログにより商品の販売を始めたのは、電子機器メーカーのほか技術のあったアマチュア無線家などであった。

アイコムの50MHzポータブル機FDAM-1。昭和39年に初のオールトランジスタ式で発売された。

このころに免許を取得した人たちにとって、理論はわかっていても機器を組み立てることが難しくなってきていた。特に、SSB(側波帯通信=電波を有効利用するための通信方式)の利用が活発になるに伴い、昭和30年代後半には次第に自作派は消えていった。市販商品の数は最盛時には約30ブランドにもなったが、そのほとんどは個人のアマチュア無線家が組み立てたものであり、まもなく市販をやめた。機器の市販はアマチュア無線家を増加させ、アマチュア無線家の増加が市販商品を増やすという『良循環』が生まれた。

市販品は、おしなべて安定性が抜群に良かった。自作品は温度変化が大きくスイッチを入れると,時間とともに周波数が変化してしまうため、30分も待ってからようやくCQをコールするようにするなど苦労して使っていた。また、SSBは立派な測定器がないときれいな電波をつくるのが難しく市販品に頼らざるをえなかった。SSB送受信機のキットも販売されたが、ほとんどの方がうまく組み立てできなかった。私もこの時に自作するのをやめている。