アマチュア無線が隆盛になるに伴い、新たな問題が出始めた。ひとつは外国人への免許問題である。日本の電波法では日本国籍のない外国人には免許できないことになっていたからである。昭和44年(1969年)に来日した米国のマイヤー大使は熱心なハムであり、日本で電波を出したくとも出せないことに不満を持ち、日本政府に直談判された。

当時の佐藤栄作首相は、郵政省に善処するよう指示。JARLも加わり、なんとか便宜を図れないかと検討。すでに、海外主要諸国間では『相互運用協定』が結ばれており、協定国であれば、どこの国にいっても電波が出せるようになっていたが、わが国にはこのような協定はない。そこで、考えだしたのがクラブ局案であった。翌45年『電波法施行規則』『無線局の根本基準』が改定され、外国人がメンバー構成員の3分の1以下であればクラブ局として認めることで決着、アメリカ大使館の中に初のクラブ局が設けられた。

昭和45年、米国との相互運用がクラブ局の形で開始された。JH1YDRで当時マイヤー駐日大使が初の運用を行った。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

当時のJARLの村井洪さんのご努力の賜物であり、村井会長はこのクラブ局の代表者に就任した。その後、同様に西ドイツ・ハムにもクラブ局が認められた。ちなみに、海外諸国との相互用協定は昭和60年に米国と結ばれ、現在の締結国は8カ国に達している。

次いで、45年に開かれた『万国博覧会』ではサンフランシスコ館にクラブ局が設置された。わが国初の博覧会は大阪の千里丘陵を会場に3月15日から6カ月間にわたり行なわれ、JARLは出展パビリオンのひとつであるサンフランシスコ館からの要請を受けて、『万国博特別局JA3XPO』を同館内に設けた。

大阪・万国博サンフランシスコ館に設置されたJA3XPO局がJARL協力のもとに運用された。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

期間中に36000局と交信したが、急な話であったために準備は大変で、私も開幕前日にアンテナ建てを手伝った記憶がある。このころには、海外との交流も盛んになり、万国博見学のついでにJARLをたずねる海外のアマチュア連盟の会員も少なくなかった。この年の5月にJARLの第12回総会が奈良市で開かれたが、やはり英国、米国など海外からの傍聴者もあった。村井会長の健康がすぐれないことから、この大会で私は会長に選出された。

また、この45年には、7MHz帯での妨害電波(ジャミング)問題が持ちあがっている。JARLと郵政省の懇談会が行われ、JARLは妨害電波の除去を依頼した。郵政省は、「この問題に取り組むためには、正確な資料を作った上で、外交交渉が必要」という。そこで、スペクトラム記録による正確な位置確認をすることになり、46年1月18日午後10時から19日午前5時までの間、電波を停止するようアマチュアに呼びかけた。

30分ほど経つと、7MHz帯の交信は聞こえなくなり、妨害電波ばかりとなった。7MHz帯は世界的にアマチュア無線が使用しているものであるが、アマチュア無線制度のない中国は、この周波数帯を海外向け放送に使っていた。さらに、当時、中国と対立していたソ連(現ロシア)はこの放送を妨害するため、大出力の妨害電波を出しており、これがアマチュア無線をも妨害していた。中国の放送周波数がずれると、ソ連の妨害周波数も即座に対応しておりその徹底ぶりには舌をまいた。