30年代から40年代にかけては、途中に「オリンピック不況」があったものの、日本の高度成長は続き、産業経済は急速に発展、やがて『経済大国』と呼ばれる基盤ができあがった。国民の生活は豊かになり、それに伴いアマチュア無線の人口も飛躍的に増加した。そして、養成課程講習会制度が拍車をかける役割を果たし、昭和41年(1966年)にはアマチュア無線技士免許取得者数は10万人を突破、10年後の51年には56万3000人に達した。

また、局免許を取得した無線局数も50年に30万となり、世界最高の数となった。その後も『アマチュア王国』の歩みは続き、57年には無線技士は100万を超えた。JARLは、まだ会員数の少なかった昭和28年に全国10エリアに支部を誕生させ、42年以降には各地に事務局ができ始めた。43年にはJARLの旗を制定し支部別に地色と文字のカラーを変えたJARL旗ができあがった。

JARLの活動も活発となり、昭和44年(1969年)に小笠原父島にJD1が公布され、ニューカントリー(新地域として見とめられること)となった。ついで、51年には沖ノ鳥島DXペデ゛ィションが行われた。DXぺデ゛ィ゛ションは、あまり電波の出ない国や地域に出かけて運用することであり、小笠原父島では92カ国、約5000局、また、沖の鳥島では73カ国、約8300局との交信が行われた。

さらに、この間48年にはJapan DX Associationと横浜緑クラブとが合同で小笠原父島でのDXぺディションを実施し、約16000局との交信を達成している。沖ノ鳥島のDXぺディションはJARLの50周年記念イベントとして行われ、船をチャーターし現地に足場や仮小屋を建て7JIRL局をを設置するなど大掛りなものとなった。

沖ノ鳥島はこの時の運用をもって『ニューカントリー』とすることをARRLが決めたことや、運用のための立地が難しいことから、世界のハムの話題を呼んだ。5月22日に東京を出発した船は途中台風に遭いながらも29日に現地に到着。同島は常時水面上にあるのは、直経約2メートルの岩のみ、それも高さ50センチ。そこに高さ3メートルの足場を建て、その上に小屋を作り、30日から6月2日の撤収ぎりぎりまで交信を続けた。

沖の鳥島DXペディションJARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

思い出すのは元駐日大使のマイヤーさんがこの時、米国から私の会社に電話をしてこられ『沖ノ鳥島のぺディションはいつまでやるのか』と聞いてきたことである。実は、その一時間前にJARLの内山敏明(JA1LR)専務理事から、天候が悪化し危険なので撤収したいと連絡があり、それでは「あと2時間で打ち切ろう」と決めたばかりだった。マイヤーさんには「1時間以内にQSOして下さい。終わってしまいますよ」と伝えた。

私は心配だったので、急いで家に帰りずっとワッチしていたが、マイヤーさんのコールサインW3ACEでの交信が聞こえたのでほっとした。すぐに、マイヤーさんの自宅に「コングラチュレーションズ」の電報を打った。マイヤーさんは昭和57年(1982年)には東京・信濃町の私の家を訪ねてくださるなど、アメリカ大使館内のクラブ局設置以来、わが国のハムとの深いつながりを続けられた。