世界各国のアマチュア無線連盟の上部組織であるIARU(国際アマチュア無線連合)は世界を3ゾーンに分け、欧州を第一地域、南北アメリカを第二地域とし、日本はアジア、オーストラリアの第三地域に属していた。昭和41年(1966年)の夏、来日中のオーストラリア無線連盟(WIA)のエルオット(VK3AL)さんから、JARLの対外国担当理事の溝口皖司(JA1BK)さんに、第三地域諸国のアマチュア無線団体の代表者を集め、共通問題を討議する会議を開催したらどうかと提案があった。第一、第二地域では既にその種の会議が開かれており、第三地域でもぜひ会議を開くよう強い要請があった。

その会議が実現したのは昭和43年(1968年)であり、4月にオーストラリアのシドニーで開かれ、JARLからは梶井謙一(JA1FG)会長、溝口理事が出席した。参加国はオーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、日本の4カ国だった。この4カ国がともに理事となり、分担金が決まった。日本1230ドル、オーストラリア600ドル、ニュージーランド380ドル、フリッピン75ドルであり、負担面ではアマチュア局数の多い日本が当然のことながら多くなった。第2回の会議は46年に東京で開かれた。

7カ国が参加し、5日間にわたり討議が行われ、①第三地域のアマチュア憲章制定、②WARC(宇宙通信に関する世界無線主管庁会議)対策、③第三地域におけるアマチュア無線活動促進,広報活動強化などが決まった。この会議では、溝口さんが理事に選出された。

50年に開催された第三地域香港会議には9カ国延べ26名が参加、IARUのイートン会長、ARRLのボールトウィン事務局長、そして私も出席した。この会議ではWARC対策、周波数拡大などが討議された。この会議では香港の代表が日本のノーコードライセンス(電信免許のない)アマチュア無線局を強く避難した。これに対して、ボートウィン事務局長は「JARLは極めて立派なアマチュア無線団体であり、ノーコードライセンスのアマチュア局も立派なアマチュア局である」と強く主張、サポートしてくれた。長時間の論議の結果、日本の電話級アマチュア局が立派なアマチュア局であることがこの総会で確認された。

原会長は、昭和43年にRSGB(英国アマチュア無線連盟)を訪問し、ジョン・アラウェー会長に面会。

54年にITU(国際電気通信連合)が主催して開催を予定しているWARC-79は、20年ぶりに世界の電波周波数の割り当てなどを見直す重要な会議である。IARUはそれに先だち51年に3つの地域の国々を集めて世界会議を開催し、その対策を検討した。25カ国から80名が参加、私もその一人となった。WARC-79は54年9月末から約10週間もの長い期間をかけてジュネーブで開催され、日本からは森本重武(JA1NET)理事がIARUのメンバーとして先発し、その後、私もJARL代表として数回、現地を訪れた。

ウルグアイのモンテビデオで開かれたIRAU第2地域総会に出席。左からプライスARRL会長、原会長、藤岡昌義・第3地域事務局長。

特に、JARLが主催したレセプションは盛大で、日本酒の「鏡開き」を披露するなど話題を呼んだが、この一連の各国代表団に対するレセプションは、IRAUを中心とした計画の基に開催されたものであった。IARUはWARC-79で、アマチュア無線バンドの拡大を認めてもらう計画をもっており、存在をPRする必要があったが、ねらい通りこのレセプションは出席者に強い印象を与えた。

また、IARUのブースでは、JARL制作の「沖ノ鳥島7J1RL DXぺディション」の映像を上映し、世界にJARLの活動のPRを行なった。会議は11月末までの予定が約一週間延びて終了したが、アマチュア無線の新周波数として短波帯で新たに10、18、24MHz帯、さらに40GHz帯以上でも多数の周波数帯域を確保、加えて、アマチュア衛星用の周波数拡大でも成果をあげた。これまでIARUが熱心に対策を練ってきたおかげであった。

このように、JARLはIARUでの地位を高めていった。ところが、会議で使用する公用語は戦前からフランス語がメイン、英語がサブになっており、第2次大戦後には戦勝国のソ連(現ロシア)、スペイン、中国の3カ国語が加わり、さらにその後、中近東、アフリカを代表してアラビア語も採用された。日本語が採用されていないことはきわめて残念なことである。