昭和32年(1957年)のソ連の人口衛星スプートニク1号の突然の打ち上げについて触れてみよう。昭和30年(1955年)に米国は、IGY(地球観測年)に合わせて人工衛星を打ち上げると発表していた。実際には対抗心を持ったソ連が32年10月にスプートニク1号を打ち上げて、米国より先行した。当初、国際会議では人工衛星から発信する電波の周波数は108MHzと決められていたが、モスクワからの放送によると、20MHzと40MHzで送信しているらしいということがわかった。

打ち上げも突然であるが、周波数の変更も突然である。あらかじめ108MHzの周波数帯での受信準備をしていたJARLは、ニュースを聞いてから慌てて、受信機をアマチュア無線機に取り替えた。ソ連の衛星観測にハムの果たした役割は大きく、一時はJARL本部局での受信風景や、受信信号を取材するマスコミ陣に事務局内はごった返した。そして、HI・HIと送信するPR用電波は3日間で止まったが、微弱な電波のみが2年間続いた。JARLは、この電波を長年月にわたり受信し、東京天文台に報告しアマチュア無線の電波観測がいかに正確であるかを立証し、特別に表彰された。

ソ連の人工衛星を電波観測するJARL無線室 JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

昭和53年(1978年)3月6日、NASA(米航空宇宙局)の西部試射場(カリフォルニア州ロンポック)から、アマチュア無線衛星オスカー8号が打ち上げられた。この衛星のトランスポンダ(中継器)とスイッチングレギュレーター(電源装置)は、わが国によって製作されたものだった。製作に当たっては51年に試作機を富士山頂に置いて実験するなど万全を期してはいたが、初めてのことだけに心配が多かった。

JAS-1に搭載されたトランスポンダ JARL発行「アマチュア無線のあゆみ(続)」より

衛星は無事受信、送信をこなしほっとしたものだ。米国は、昭和36年(1961年)にオスカー1号を打ち上げており、この時からすでに30年近い歴史をもっていた。一方、ソ連も米国に対抗して53年にアマチュア無線衛星RS-1、RS-2の2基の衛星を打ち上げている。米国のオスカー1号は、素人が作ったものであり、電源に水銀電池を使用していたため、3日間でバッテリー切れとなってしまった。また、2号まではビーコン信号発信のみの機能であったが、3号以降は太陽電池を積み込むとともに、リピータを搭載した(5号は信号送信のみ)。

この時に、問題が発生した。わが国ではハムは第三者(ハム以外)と交信してはならないという規則がある。当然、アマチュア無線衛星のリピータはこの第三者に当たる。電波監理局はアマチュア無線衛星を使用してはならないという見解であった。これには困った。日本は野蛮国のレッテルを押されてしまう。私は急いで電波監理局に駆けつけ、当時の平野会長に対して「世界のどの国でも衛星を利用している。日本が許可しないと日本は野蛮国とみなされますよ」と利用できるよう要望した。その結果、1時間程度の話し合いで許可が下り、7号から使えるようになった。

海外では、すでに打ち上げている米国、ソ連の他に、ドイツ、英国、フランスも計画しており、このままでは、わが国は完全に立ち遅れてしまうことがはっきりしだした。ドイツはオスカー8号衛星打ち上げには、日本、カナダとともに支援したが、その後の自前の衛星打ち上げでは失敗していた。このころには、IARUの主要国からもJARLへの批判が出始めていた。日本のハムは、米国、ソ連の衛星を使いながら、それらの衛星打ち上げの経費を負担していないではないかという非難である。

昭和55年6月に私は西ドイツ・フリードリッヒハーフェンで開かれたIARU会議とHAM RADIO'80 に出席したが、「日本はアマチュア衛星を大いに利用しているのだから使用料を払うべきだ」「オスカー衛星打ち上げに応分の費用を負担すべきだ」等と迫られた。とくに、ドイツのDARC(ドイツアマチュア無線連盟)のレッシング(DK3LP)会長からは「わが国は、再三衛星打ち上げを計画しているが資金がない。資金の一部を出して欲しい」と具体的な金額を提示して強行に要請された。結局、日本は後日DARCに対して、5万米ドルを衛星打ち上げ用として寄付した。