自前の日の丸衛星打ち上げはもはや待てない、という雰囲気を海外で感じさせられたが、日本国内でもでもアマチュア無線衛星を上げようとの要望が強まり、56年6月には要望書を当時の郵政省電波監理局長に提出するとともに、7月には私は森本JAMSAT会長らとともに、自由民主党本部を訪問し、国会議員の方々に必要性を説明した。この時には後に総理大臣になった小渕恵三(JI1KIT)さん、関谷勝嗣(JA5FHB)さん、松前達郎(JL1SRS)さんを始めとする7議員が説明会に集まってくれた。

実は、その1年前の55年に、小渕さん、関谷さんが中心となり「国会アマチュア無線クラブ」が誕生していた。その年の12月10日には、東京の赤阪プリンスホテルで同クラブの設立総会が開催され、小渕さん、関谷さん、中村正三郎(JI1LVO)さん、森下泰(JR3NVS)さんらの国会議員ハムの他、国会職員ハムの方々も参加された。私たちもお招きにあずかり、祝辞を述べさせていただいたが、クラブの会長になった小渕さんは「アマチュアさんのため、郵政省との連絡役になりたい」と挨拶された。

国会アマチュア無線クラブが発足。電波を出す故小渕さん。右は原会長。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ(続)」より

故小渕さんを囲んで、右は原会長、左は故井深元ソニー社長。

このような背景があったからかどうかは別として、小渕さんらは56年の年末に当時の箕輪郵政大臣、中川科学技術庁長官にアマチュア衛星打ち上げを要望された。この年の10月には米国はさらにオスカーUO-9を打ち上げ、また、ソ連は12月にRS-3~RS-8までの6個の衛星を軌道に乗せた。このため、わが国ハムの国産衛星打ち上げの要望はますます強まった。JARLも積極的に取り組み続けていたが、その前に解決しておかなければならない問題があった。衛星にはレピータ〈中継器〉の搭載が必須であるものの当時はアマチュア無線にレピータが許可されていないことであった。レピータとは、電波を受信し、そのまま同じ信号を周波数を変えて送信するもので、弱い電波を受信し強くして送信する仲介の役割を果たすため、より遠方との交信を可能にするものである。

そこで、JARLはまず、衛星打ち上げの当面の課題としてレピータ問題を解決することを決めた。レピータ開設については、JARLはすでにレピータ研究委員会(委員長=藤室衛=JA1FC)を設置していたが、56年3月に初会合を開いて、[1]法制上の問題、[2]海外の状況分析、[3]技術上の課題、[4]アマチュア無線界の対応の検討を始めていた。

この年の11月に私は田中郵政省電波監理局長にレピータの早期実現を陳情するなど積極的に動いた。その結果、翌57年(1982年)1月に郵政省は各地方電波監理局に中継器設置許可の通達を出し、3月に第1号機がJARL本部事務所近くの分室(第2イソノビル)に開設された。

第1号のレピータ局JR1WAの受信周波数は434.92MHz、送信は439.92MHz、電波形式はF2・F3、出力10W。レピータ局の設置、運営については、JARLが設置・監理する「直轄局」と、団体が経費を負担し設備を連盟に無償貸与することを条件に連盟が開設する「団体局」の2種にわけることにし、全国の地方本部ごとに「直轄局」が設けられることになった。一方、10月1日に第1回の「団体局」の受付を開始し、結果的に130局が承認された。「団体局」の第1号は福岡県甘木市に設置されたJR6WBであり、58年4月に運用を開始した。なお、現在は全国に約1650局のレピータが設置されている。

田中電波監理局長にレピータ解説許可を陳情する原会長(左)JARL発行「アマチュア無線のあゆみ(続)」より