アマチュア無線の局数は平成6年まで増加を続け、同7年の3月調査では136万4000局に達した。このようなハムの増加に伴い、身体障害者からも資格取得を要望する声が強まってきた。わが国の「無線従事者国家試験及び免許規則」では第3条の13の第2号で「精紳病者、耳の聞こえない者、口の利けない者または、目の見えない者」には、資格の免許が制限されていた。郵政省の見解は「それぞれの障害者は、電信のキー操作ができなかったり、電信音・電話の音や声が聞こえない、また、話ができないなどからアマチュア無線の免許を与えることはできない。もし、不自由が故に感電などの事故が起きたらどうするのか」というものであった。

この問題に積極的に取り組んだのが、砂本勉(JA4VB)さんや小林捷一(JH4BWR)さんだった。砂本さんらは、目の不自由な人向けにはハンダごての温度変化を音で知らせるようにし、また、耳の不自由な人向けには音をネオン管の点滅でわかるように工夫した。昭和32年(1957年)に名古屋で開かれた総会では『身体障害者もアマチュア無線ができるよう法改正を電波監理局に要望する』ことを決議した。この結果、33年に目の不自由な人への資格取得が可能となり、翌34年に砂本さんはJA4VBとして開局した。

昭和56年(1981年)、国際連合はこの年を「国際障害者年」とし、翌57年には、「障害者に関する世界行動計画」を立てて、昭和58年から昭和67年までを「国連障害者の10年」とする計画を発表した。JARLはこの機会に耳、口、目の不自由な人でも資格取得ができるようにする活動を開始した。昭和57年の6月に、小川道生(JA1MIN)さん、保土塚時久(JK1EWY)さん、森政雄(JA1COW)さんらが郵政省を訪問し、ラジオ、テレタイプ、ファクシミリ、テレビジョン(SSTV、ATV)パソコンなどを持ち込み、身体障書者でも何らかの方法でアマチュア無線を使いこなせることを実演した。

郵政省は世界的な動きには敏感であり、すぐに政令で改正を決定し、この年の7月13日の官報で公布し即日実施した。さらに、8月中旬に聴聞会を開催し「無線従事者国家試験及び免許規則」の一部改正が決まった。この結果、身体障害者がハムとなる通が開けたが、それでも耳の不自由の人は電話級にとどまり、1級、2級,電信級は認められなかった。平成8年、ようやく耳の不自由な人にも1級から3級までのアマチュア無線技士の資格取得が可能となった。

その後、筋ジストロフィー患者にも何とか資格が取れるようにしてもらおうと、活動を始められた方がおられた。千葉県・四街道市の伊藤璋嘉(JA1CVR)さんは、郵政省に陳情に行き実情を説明し「その人たちは今後、何年生きられるかわかりません。一刻も早く免許を」と訴えた。伊藤さんは、四街道市で県立四街道養護学校の先生であり、患者の気持ちが良くわかっていた。結局、試験官自らが筋ジストロフィー患者の自宅に赴き、無線機の前で操作可能かどうかを確認して、免許を与えられるようになった。この時、免許を取得した同校出身の福島あき江(JN1NYS)さんは、ほどなくして米国留学を果たす。筋ジストロフィー患者のアメリカ留学は始めてのことであり、伊藤さんが中心となって、全国のハム仲間が留学費用などをカンパした。

福島さんは米国留学に出発した。四街道市の姉妹都市であるカリフォルニア州リバモア市で3ヶ月間生活した。

今年(平成13年)の富山総会で身体障害者団体の車椅子の方が「意見をいわせていただきたい」と挙手された。その方は「身体障害者にも免許が与えられるようになり感謝しています。しかし,その中には流暢にしゃべれないハムもいます。交信中にそれをからかう心無い人もおります。どうか、そのようなことはやめていただきたい」と発言され,参加者に訴えた。JARLは長い期間をかけて身障者の方々にもハムへの道を切り開いてきた。仮に、身障者の交信をからかうような人がいるとしたら、JARLの努力が水の泡となリ、まことに残念なことである。ちなみに、現在、目の不自由な人向けに、JARLニュースはボランティア団体の手により、点字版でも発行されており、また、カセットテープに吹き込まれて「声のニュース」としても届けられている。

福島さんを支えたハムを含む多くの人たちが羽田空港に見送りにかけつけた。