わが国のアマチュア無線のコールサインは、時代とともに変遷をたどってきたが、このほかにめんどうな問題があった。コールサイン「KA」局の存在である。太平洋戦争終了後、米軍は多くの国に進駐した。アジアでは日本のほか中国、韓国、フィリピン、台湾などであり、それぞれの国でアマチュア無線を始めた。日本ではまだアマチュア無線が再開されていない頃から、彼らは交信を楽しんでいた。

戦前のハムはみなそれを聞き、歯がみしていた。その米軍のハムのコールサインがKAであり、米国のプリフィックスであるKにちなんだコードを取り入れ、同時に戦前の日本のエリアにならって、エリアナンバーを取り入れていた。KA2(関東)KA3(中部)KA4(近畿)KA5(中国)KA6(四国)KA7(九州)KA8(東北)KA9(北海道)KA0(硫黄島及び太平洋の島)であった。

敗戦国の日本にとっては、KA局の存在は指をくわえて見ていなければならなかったが、同時に多くのKA局は日本のアマチュア無線再開のために協力を惜しまなかったし、また、進んだ米国の通信機の現状を教えてもくれた。私は何度かKA局に呼ばれて訪ねて行ったが、皆立派なシャックをもっていた。100TH、250THの真空管が明々と灯っており、BC610の送信機をもっている方もいた。

昭和27年(1952年)わが国でアマチュア無線が再開された後でも、KAは「軍用補助局」の名称で残された。米国ARRLのQST29年4月号では、MARS(軍用補助局)としてのKA局がリストから削除されており、KA局問題は解決したものと我々は理解した。ところが、KA局の団体であるFEARL(極東アマチュア無線連盟)は、日本のアマチュア局として発足すると発表した。

KA局の団体であるMARS(軍用補助局)のマーク。

JARLは電波監理局の見解を質した。これに対して、監理局は「アマチュア無線局としては許可しておらず、軍用補助局として14MHzのみの使用を認めている」との答えであった。しかし、FEARLは「アマチュア局として免許された」と発言しており、JARLは硬化した。すでに、他のアジア諸国ではKA局はそれぞれ自国のコールサインを付しており、わが国のみが米国のコールサインで日本領土内で電波を出していることも理解できなかった。

昭和30年7月の日米合同周波数委員会では、FEARLは「JARLの意向を大幅に取り入れ、運用面の制限する」と約束している。また、9月に郵政省は「KA局は軍用補助局であるため、アマチュア無線との交信を禁ずる」と苦しい発表をした。

これを受けて、JARLは、IARLの他、ARRLなどの世界各国のアマチュア無線団体に対し「昭和27年(1952年)7月16日以後の軍用補助局との交信はすべて合法的な通信とは認められない」「DXCC(DXセンチュリー・クラブ)ルール第6項の規定により同日以降の交信は有効交信より除外さるべきものであり、KAプリィックスはARRLカントリー・リストより除外さるべきである」と通知した。

この頃は、日米安保条約の改定を前にして、世情がゆれている時期であり、すっきりした解決はえられなかった。その後、自然消滅の形でKA局はなくなっていったものの、それには約20年の歳月を要した。

一時的にアメリカの領土となった沖縄はさらに、複雑な経緯をたどった。戦後、米軍は沖縄にKR6のプリフィックスを持ちこみ、アマチュア局を自由に運用していたが日本人には免許が与えられなかった。昭和36年になってようやく沖縄人にも免許が与えられ、昭和41年の本土復帰を迎える。この間、プリフィックスはKR8→JR6(JS6)と変遷している。

CQ誌の昭和29年11月号には、JARLと郵政省がKA局問題を打ち合わせた内容が掲載された。