JARLの活動の歴史は、ある意味ではアマチュア無線の権利拡大の歴史であり、とりわけ、周波数拡大の歴史であった。もちろん、貴重な周波数を無理に勝ち取ってきたわけではなく、WRC(世界無線通信会議、旧WARC)が周波数拡大を計画し、世界的に決定したアマチュアバンドを割り当ててもらうことを私達が運動してきたに過ぎないと思っている。私自身、これまでを振り返ってみると周波数獲得にJARL活動の半分を割いてきたような気がする。

わが国初のアマチュア無線衛星の制御局前の原会長

戦前、わが国では1.8/3.5/7/14/28/56/112MHzの周波数帯がアマチュアバンドに割り当てられていた。しかし、戦後の免許再開に当たっては私達がもっとも欲しかった1.8/3.5/7MHz帯のアマチュアバンドは大幅に制限されてしまった。終戦にともない日本に進駐してきたGHQ(連合国軍総司令部)は、軍の通信として多くの周波数を使用していたことからアマチュア無線の周波数が制限されざるを得なかった。昭和27(1952)年7月、30局に予備免許が、8月には5局に本免許がそれぞれに与えられた。ところが、同時に提示されたアマチュア無線の周波数は、7MHz帯でA1が3波、A3が2波のスポット免許にすぎず1.8/3.5MHzは許可されなかった。

JARLは早速、当時の電波監理局と交渉した。回答は「日本の船舶、進駐軍が使用している周波数があり、今は許可できないが徐々に解決できるもようであり、アマチュア周波数は拡大の方向になる」と方針を示してくれた。その結果、翌28年の5月になって3.5MHzもA1、A3ともに2波ずつ許可され、さらに、29年になると3.5MHz帯、7MHz帯がバンド開放された。同時に4.2MHzが非常通信連絡設定用として追加された。

昭和28年当時の割り当て周波数の一覧表を掲げておく。この時、新たに21MHzが割り当てられた。多くのハムにとっては3.5MHz、7MHzの送信機は作りやすいこともあり、この2つの周波数帯の交信に集中した。高い周波数の送信機の自作は難しかったからである。

再開時に割り当てられた周波数(出典「CQ」昭和47年8月号付録)

C条約による周波数帯 周波数の指定方針 電波形式の指定方針 空中線電力
3500kc~ 3575kc
7000kc~ 7100kc
個別周波数 A1,A3 100W以下
14000kc~14350kc 14080kc~14270kcの周波数帯
有周測器の場合
14010kc~14340kcの周波数帯
500W以下
21000kc~21450kc 21120kc~21330kcの周波数帯
有周測器の場合
21013kc~21437kcの周波数帯
28000kc~29700kc 28200kc~29500kcの周波数帯
有周測器の場合
28025kc~29675kcの周波数帯
A1, A2, A3,
F1, F2, F3 
50W以下
50Mc ~ 54Mc 50.35Mc~50.65Mcの周波数帯
144Mc ~ 148Mc 145Mc~147Mcの周波数帯
1215Mc ~ 1300Mc 1231Mc~1284Mcの周波数帯
2300Mc ~ 2450Mc 2340Mc~2410Mcの周波数帯 A1, A2, A3,
F1, F2, F3,
パルス
5650Mc ~ 5850Mc 5730Mc~5770Mcの周波数帯
10000Mc ~10500Mc 10140Mc~10360Mcの周波数帯

私自身は、50MHz機を自作して交信したが、相手になっていただけるハムは少なかった。なぜ、私は50MHzか、というと今だから話せる戦前の話題となる。戦前、私はアマチュア無線の免許を取れなかった。アマチュア無線の資格は3級無線技士以上であり、さらに逓信省は昭和15年になるとハムの免許を中止した。そこで、私を初め何人かは56MHz機を作り交信を始めた。戦争直前に誕生したJARLの国防無線隊は56MHzのトランシーバーを作り、防空の通信に備えた。

軍は何10台も作るよう要求してきたため、当時学生であった私も手伝いどんどん作り、試験通信をした。戦後の50MHzでの活動は、その技術を活用して送受信機を製作できたからである。昭和32年には7.1~7.15MHzが期限付きで許可された。この周波数帯は人工衛星関係に使用することになっており、条約が切れるまではということで昭和34年12月までは利用が許されるようになった。JARLのIGY(国際地球観測年)での貢献が認められ、電波監理局は非常に好意的となっていた。さらに、この7.1~7.15MHz周波数は再度使用が延期となり、結局36年の4月30日まで使用が許可された。