[アマチュア無線開始の年] 

昭和2年(1927年)東京は4年前に死者・行方不明者14万3000人を出した「関東大震災」から、復興が進んでいた。その年に作間澄久さんは東京市小石川区林町(現文京区千石1丁目)に生まれた。この年はくしくも日本のアマチュア無線免許が初めて下りた年でもあった。有坂磐雄さん、楠本哲秀さんにそれぞれJLYB、JLZBの「短波実験局」が許可されたのが3月。

9月には草間貫吉さんにJXAXのコールサインが公布されるなど9局が免許され、わが国のアマチュア無線がスタートしている。また、前年の大正15年(1926年)に発足していたJARL(日本アマチュア無線連盟)は、1月に無線雑誌「無線之研究」を初めての機関誌に指定している。さらに逓信省は一般国民の短波受信を禁止したのもこの年であった。作間さんはいわばわが国の「短波」の黎明の年に誕生したともいえる。

作間さん一家。昭和14年。右から2人目が作間さん

[父親自作のラジオ]

作間さんの父親は最初、大阪・堺市にあるセルロイド生産をを主力とする大手化学会社に勤めていた。その後、同社が他社との合弁で写真用フィルム製造会社を東京に設立したのにともない、家族は東京に移転した。化学が専門の父親であったが、ラジオにも興味をもっていたらしく、大正末年、堺市に住んでいたころ真空管ラジオを作り上げ、東京からの放送を受信したという。

現NHKが東京で国内初のラジオ放送を開始したのは大正14年(1925年)3月。次いで大阪での放送開始は6月であった。この受信した放送を聞いた奥さんは「東京からの放送とは絶対に信じなかった」と後に作間さんは聞かされている。この時に父親がラジオの自作の参考にした本には「コンデンサーや抵抗器の作り方まで載っていた」ことを少年になった作間さんは見ている。

このため「小学生のころのわが家のラジオはスピーカーボックスが独立し、金属ケースに入ったものでレフレックスだったらしい。中学生の頃は24B-24B-47B-12Bの高1(高周波1段増幅)のものだった」と作間さんは記憶している。そして、このラジオは戦後まで残っていて「戦後自分で修理したので回路まではっきり覚えている」と言う。

[飛行少年]

昭和8年(1933年)作間少年は小石川区立明化尋常小学校に入学する。ドイツではヒトラーが首相に就任し、日本は国際連盟を脱退、8月には関東地区では防空演習が行われ、「愛国無線通信隊」が組織されて、32名のハムが参加している。戦争に向かっていることを予感させるような年に作間少年は校門を潜った。

昭和14年(1939年)作間少年は東京府立第五中学校(現都立小石川高校)に入学する。同中学は大正7年(1918年)に設立され、理化学教育を重視し、生徒に自由闊達を求めた学校であった。現在の小石川高校も名門校として知られており、来年度(2006年度)から教育界の流れを先取りし「中高一貫教育高」に制度を変えることになっている。

作間少年が入学した2年前、すでに大陸では日中戦争が始まっていた。父親自作のラジオを見て育った作間少年であるが、この旧制中学時代には「ラジオ」少年より「飛行」少年だった。「非行少年ではありませんよ」とユーモアを交えて当時を回顧するが、上級生になると「航空部」に所属してグライダーを楽しんでいた。

グライダーに乗った作間少年

当時のプライマリ―(初級機)で訓練した作間少年は「18人一組で太いゴム索(なわ)を引き、パチンコ玉のように飛ばすので1日中やってもせいぜい4回しか飛べず、しかも滞空時間は長くても20秒くらいであった」と言う。教官が体操の先生であったため「体操と教練の点数は良かった。「すこしオマケしてくれたのであろう」と当時を語っている。

卒業を前にして茨城県鹿島砂丘で行われた東京都主催の合宿で作間さんは「3級滑空士」の資格を得る。「確か30秒の直線滑空が3級の条件であったが、何の役にも立たない資格だった」と苦笑いしている。「航空部」の3年後輩には田中利興(JA1TJ)さんがおり、後にNHKに就職し仕事もずっと放送関係であったが「会う機会がなく、平成2年(1990年)にアトランタでのNAB(全米放送事業者大会)会場で50年ぶりに再会した」と語る。

作間少年が訓練した「プライマリー」グライダー

[磁気計、竹針でレコードを聴く]

中学時代の作間さんはいろいろなことに夢中になった。3年になると音楽に興味をもち、日比谷公会堂にオーケストラを聞きに行ったり、当時はまだ珍しい自宅の電蓄(電気蓄音機)でクラシックレコードを聴いていた。当然、レコードはSP盤であり「古レコード屋から買い集めたベートーベン、モーツアルト、シューベルト、シュトラウスなどを友達とよく聴きました」と言う。

SP盤は片面が演奏時間3分前後のため、シンフォニーとなると5,6枚の裏表を取りかえることになる。しかもレコードの溝をなぞるレコード針は毎回交換するのだが、昭和17年ころになると鉄針が不足して「ガラス針、陶磁器針、ついには竹針になっていった。竹針は磨耗してもまた削って使えるため便利だった」と作間さんは当時を思い出す。

在学中の昭和16年(1941年)危ぶまれていた日米関係が行き詰まり、12月に太平洋戦争が勃発する。しかし自由主義の同中学では「戦時中も教師の暴力やうるさい規制はほとんどなかった」と言う。このため、作間さんはお兄さんと映画館にも出入りした。「ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、エドワード・G・ロビンソン、ジェイムス・ギャグニ―など味のある俳優が多かった」と懐かしむ。

作間さんの感慨は「映画で親しんでいたアメリカと戦うことにあまり違和感をもたなかったのは不思議である」と言うことであり、また逆に「戦後、日本に駐留した占領軍とのトラブルが意外に少なかったのは、戦前に日本人が映画を通してアメリカになじんでいたためではないか」と言うものである。