[鉱石ラジオ] 

このような中学生活を送りながらも、鉱石ラジオや火花送信機の実験なども手がけていた。当時出回っていた本の「やさしいラジオの作り方」を参考に鉱石ラジオを作ったが、そのころの記憶は鮮明である。「バリコンが1円50銭、ダイヤルが50銭だった。厚紙を切りぬき、絹まき線を巻いて蜘蛛の巣コイルを作った。鉱石検波器はフォックストンブランドが売られていた。高かったのはヘッドホンであり10円くらいしたと思う」と言う。

火花送信機は父親のもっていた本を見て知った。マルコニーが作り上げて実用化した送受信機は仕掛けの大きな物であったが、作間さんは「要は火花が出ればいいと考え、家にあった直流ブザーを活用して超小型の送信機を作り、アンテナを接続して実験した」らしい。実験は成功し「モールス信号のまねごとをし、マルコニ―の気分になった」と言う。

[特別幹部候補生] 

昭和19年(1944年)校名が「都立第五」に変っていた中学を卒業し、4月10日に「陸軍特別幹部候補生」に志願し、陸軍航空通信学校加古川教育隊に入隊。「陸軍特別幹部候補生」は、戦局の建て直しのため技術下士官などを早期育成する目的で、昭和18年12月に設けられた制度であった。このため作間さんらは発足後、最初の第1期生であった。

特別幹部候補生として加古川教育隊に入隊。昭和19年10月

「陸軍の通信教育は意外と進歩的だった」と作間さんは言う。受信は音像式、送信は反動式でモールス符号の練習は「合調語」での暗記を認めず単語カードの使用も禁止であった。その教育を受けた作間さんは「今でも縦振れ電鍵(キー)しか使わない。いや使えない」と言い、最近のエレキー(電子式電鍵)については「エレキーは誰でも綺麗な符号が打てて、CWの普及のためにも良いと思います。しかしトンやツーが一つ二つ多いのに気づかずに、自分の能力以上のハイスピードで送信している局を時々聞きますが、ゆっくりでもよいからせめて正しい字を打って欲しいですね」と嘆いている。

入隊後のある深夜の受信演習の時、退屈した作間さんは受信機のコイルを差し替えてメルボルンの日本語放送を聞いていたことがある。ところが突然に小隊長がやってきたため「肝を冷やした。隊長が他の班と話をしている間に、わからないようにコイルを元に戻してごまかした」と言うようなこともあった。敵側の放送受信は堅く禁止されていたからである。使用していた受信機の「対空2号」は15MHz付近まで受信でき、かなりの放送、通信が受信できた。

[陸軍の暗号通信] 

通信訓練は単にモールスで平文の送受信を勉強することだけではない。暗号通信も会得しなければならない。陸軍の暗号通信は数字4文字単位(機上は3文字)の組み合わせに乱数表を加算して送信する。このため、同じ電文でも作成するたびに違う暗号文となる。作間さんは「コンピューターのない時代に米軍はどのような方法で解読したのか。ぜひ知りたい」と今でも不思議に思っている。

もっとも、太平洋戦争中、日本軍の暗号が解読されたという話は海軍の場合が多い。

有名なのはミッドウェイ島攻略の作戦が漏洩したことと、やはり暗号が解読され山本五十六司令長官搭乗機が襲撃され、長官が戦死したことである。ミッドウェイ島の場合は「ミッドウェイ海戦」で待ち伏せに会い、海軍は壊滅的な打撃を受ける。また、山本長官は海軍のシンボル的存在であり、その死は国民に大きな精神的な打撃を与えた。

地3号受信機(JA1CA、岡本次雄さんが使用していたもの)

[野外通信演習] 

作間さんは8カ月の教育を終えてその年の12月27日に卒業する。その卒業を間近にしたある日、一個小隊で和歌山県南部町に野外通信演習に出かけた。「演習ではあるが、規則づくめの本隊を離れて遠くに移動できる上、歩兵と違って強行軍も戦闘演習もないのだから、戦時中に申し訳ないがわれわれは半分遠足気分で出発した」と当時を語る。

演習に持参したのは小型の地3号無線機。送信管は807Aのパラレル、出力は40W。しかし、送信機、受信機、ガソリン発電機、アンテナ、バッテリー、付属品などを含めると「一式だけで200Kg近くの重さになり、運搬は大変だった」らしい。

演習の現地では女学校の教室の一部を宿舎とし「海岸の砂浜に穴を掘り半地下式テント張りの無線局を設置し、加古川の本隊との通信を開始したが、いくらキーをたたいても一向に通じない。アンテナは1/4λの逆L型のためアースが必要で、掛け軸のような形をした銅の網を地面に埋めるのだが、砂地のため接地効率が非常にわるかった」とその時の様子を語って。

[馬鹿野郎事件] 

ところがある日、信号が突然RST599プラスの強さで入感し始めた。報告を聞いた学徒動員の若い小隊長が飛んできて「こんなに強く聞こえるはずがない。これは敵潜水艦の謀略電波である。合言葉を打ってみろ」と命じた。通信士が「ヤマ、ヤマ、ヤマ」の合言葉を送信すると相手からは「ヤマ?ヤマ?ヤマ?」と尋ねてきた。本来ならば「カワ、カワ、カワ」と応えなければならないはずであった。

このころ、米軍は南方の日本軍の占領地区を奪還してサイパン島も陥落、日本本土に迫ってきていた。小隊長は「それみろ、やはり敵だ。バカヤロウと打ってやれ」と命令した。

作間さんらも日本近海にまで敵潜水艦が出没していることを知っていたこともあり「まして上官の命令なので従った」と言う。

地3号送信機(JA8GSW、大関富雄さんの資料より)