[合言葉を知らなかった] 

上官に命令された通信士は「バカヤロウ、バカヤロウ」と丁寧に何度も繰り返し送信した。相手はピタリと沈黙してしまった。作間さんらは「びっくりしているであろう米兵の顔を想像して大いに愉快だった」と言う。このように本隊との通信はあまり成功しなかったが「地元の婦人会のおばさんたちが、夜中にこっそりテントを訪ねて来て、ミカンや蒸かしいもを山のように差し入れてくれ、大満足だった」らしい。「おかげでその後に腹をこわしました」と、作間さんは苦笑する。

[通信士の不幸] 

作間さんら小隊は意気揚揚と加古川に帰隊した。そこで知ったのは「バカヤロウ」を送った相手は本隊であったことだった。しかも、通じない通信に業を煮やした本隊の小隊長自らキーを叩いていた。この小隊長は兵隊から叩き上げの筋金入りの古参中尉である。問題はこの中尉が合言葉を知らなかったことである。

新米少尉と叩き上げの中尉とでは最初から勝負にならない。「合言葉を知らなかった中尉の方が悪い、などの正論は通用しない。打電した通信士は当然のことながらぶん殴られたが、その後、両小隊長の間がどうなったのかは知らないまま過ぎてしまった。多分、温厚な中隊長がとりなしたのではなかろうか」と作間さんは言う。

この話にはさらに後日談がある。昭和64年(1989年)に加古川第4中隊メンバーの戦友が戦後44年を経て初めて集った折りに、この「バカヤロー事件」が話題となった。「不思議なことに事実関係は皆が正確に覚えているものの、この不幸な通信士が誰であったかはどうしても思い出せなかった」ようだ。この話は昭和62年(1987年)11月の「朝日新聞」で紹介され、翌年からの戦友会開催のきっかけとなった。

[電波兵器] 

昭和20年(1945年)ますます日本の敗色は濃くなり、地方都市までが空襲されるようになるが、国民はまだ「必勝」の信念をもって耐えぬいていた。加古川教育隊の卒業時、航空総監賞を受賞していた作間さんは、この年の3月下旬、水戸市の陸軍航空通信学校本校に転属する。「卒業から3カ月の間に多くの仲間が沖縄、台湾、中国、満州などに転属していった。その後彼らの一部は戦死・病死したり、満州からシベリヤに抑留されて亡くなったりした者もいる。これも運命であろうか」と作間さんは感慨深げである。

5月ころからは航空通信学校の一部が「陸軍電波兵器練習部」という名称となり、もっぱら電波兵器の教育を受けることになる。当時、電探(電波探知機、レーダー)は、各地で開発が進められており、それに携わった戦前のハムは多い。「レーダーとは言いがたいが、当時陸軍の電探は東京女子大を接収した多摩研究所で開発されており、タチ6などの名称が付けられていた。タは多摩、チは地上、キは機上を表わす。誘導機にタチ13、タキ17などもあった。周波数は200MHz前後だったと思う」と作間さんの記憶は鮮明である。

水戸の飛行場は空襲を受けた後で、飛行機は「常時一式双練と百式重爆が一機ずつしかなかった」と言う。それほど戦況は悪化していた。ところで作間さんの転属は目まぐるしい。7月下旬に東京一ツ橋の如水会館にあった第一航空第十飛行師団司令部に転属し、ほどなくして鎌ヶ谷の同第53戦隊、さらに調布の飛行第244戦隊に配属される。敗戦間近の混乱もあったのかもしれない。

[終戦] 

調布では終戦までの1週間くらいは殆ど毎日が土木工事であった。敵の来襲に備えての防塞作りである。そして8月15日、わが国は無条件降伏するが、この日多くの国民が聞いたはずの「玉音放送」を作間さんは聞いていない。一ツ橋の学士会館にあった師団司令部に命令受領の公用を命じられ、外出していた。すでに鉄道網は空襲により大きな被害を受けていたが当時の国鉄(現JR)は少数ながらちゃんと運行していた。調布から中央線武蔵境駅まで約4キロを歩き、何とか電車に乗って昼過ぎに司令部に到着した。

しかし「なんとなく周囲の雰囲気がおかしい。とげとげしい面もあれば、意気消沈の様相でもある」ことを作間さんは感じたが「命令書を受領に来ました」というと「そんなものは無い。帰れ帰れ」と取り付く島も無い。仕方なく来た道を戻るが「なんとなく世の中がざわざわしており気にしながら帰る」調布の原隊近くで家の外に出ていたおじいさんに「何かあったのですか」と聞く。「戦争は終わりました」との返答で初めて知らされた。

原隊は本隊から離れていた上にラジオも無かった。正午からの「玉音放送」を聞けとの指示も無かったらしい。戻ってみると、みな不安に怯えていた。中には荷物をまとめてさっさと帰ってしまった隊員もいたが誰も文句を言わない。各地で終戦に納得しない一部の将校、兵士は反乱を起こした。

つい半月前まで作間さんの居た水戸の航空通信学校の一部将校が200名ほどの兵を連れて、上野まで上京したが説得されて引き上げる事件も起きた。この時、詳細は略すが説得に来た上官4名が射殺されており、首謀の士官たち5名も帰隊後に責任を取って自決したことを作間さんは後に知る。

「戦争は終わったのに前途有為の青年9名が命を落した。あまり知られていないが悲しい出来事であった」と今でも顔を曇らせている。作間さんによると「当時の兵で現在は山梨で住職をされている方が、毎年この時期になると、これらの亡くなった人たちの供養をされている」という。「水戸に居たら巻き込まれていたかもしれない」と作間さんは複雑な思いだったと言う。

旧陸軍が使っていた電鍵(キー)作間さんは今でも使っている