[射殺されることもある] 

終戦になっても残務整理のため作間さんらはすぐには解放されなかった。ただし、東京への空襲を避けて埼玉県の浦和に疎開していた家族の元に、外出許可をもらい2度ほど帰っている。作間さんが正式に調布を離れたのは8月26日になってからだった。復員時の階級は陸軍伍長。結局、軍隊では戦地に行くことなく、無線通信を存分に勉強した生活だったらしい。「外地に送られた仲間の中には沖縄やフィリッピンで戦死したり、戦後に満州からシベリヤに抑留され重労働で病死したりした者もいます。運が良かったとしか言いようがありません」と語っている。

しばらく後に作間さんは調布の旧通信所跡に、無線機作りに役立つものがないかと出かけたことがある。すでに進駐軍の管理に置かれていたが、勝手に入ることができ、「バーニアダイヤルや細かな部品を探して拾ってきた」。「米軍の管理施設にしてはすんなり入れた」と不審に思いながら、作間さんが帰りに別の道を通り出口で振り返えると「ここより中に侵入すると射殺されることがある」との看板。「びっくりしてしまった」ことがあった。

[お久しぶりね] 

国内でも進駐軍向けのラジオ放送FEN(極東放送、当時は「WVTRトーキョー」と言っていた)が始まり。戦前に聞いた懐かしいジャズが聞けるようになった。作間さんがその時初めて聞いたポピュラーが”It’s been a long Time”(おしさしぶりね)であった。「後にサッチモなども歌っているから的外れかもしれないが、米国では帰還兵を美しい女性が”キスを、もう一度、もう一度、おしさしぶり”と出迎える歌詞であると勝手に解釈した。その米国と、帰還のその日から腹を空かして買出しに焼け野原を駆け回る日本とは大違い」と考え込んでしまった。

「敗戦国の悲哀と戦勝国への羨望と平和のありがたさとが混ざりあったうれしいような悔しいような複雑な心境だったからだろう」と、その時を分析する。が同時に「この時代に夢中で聞いた新鮮な米国のジャズの知識が後に放送の現場で結構役に立つことになった」と感謝している。
[あなたタローか] 

昭和20年(1945年)10月2日付けの朝日新聞は「あなたタローか」の見出しで、日米の戦前のハムの出会いを伝えた。太平洋戦争が始まるまで、日本のハムの多くが海外の仲間と活発に交信しており、その中の一人に矢木太郎(J2GX)さんがいた。しかし、戦争は世界のハムの間も引き裂くことになり、多くの国がアマチュア無線での交信を禁止していた。

戦後、進駐軍が日本に到着したわずか1週間後、矢木さんの自宅を一人の米兵が訪ねる。「あなたタローか」と米兵は懐かしそうに抱きついた。ジュリアス・ウェングラー(W8OSL)さんである。日本への駐留第1陣に加わり、少しでも早く日本人ハムの無事を確かめたく、空襲で転宅した矢木さんの家を苦労して探し出したのである。

矢木さん(左)を尋ねたジュリアスさん---JARLアマチュア無線のあゆみより

作間さんはこの記事を見て「大いに感銘を受けた」という。しかし、実際に作間さんが矢木さん(当時JH1WIX)と交信できたのはそれから40年近くも経った昭和59年11月。直接会うことがきたのはさらにその2年後の昭和61年11月だった。「JARLの懇親会で矢木先輩にお会いして、当時の話を詳しくお聞きすることができた。とても素晴らしい興味あるお話であった」と言う。

[短波放送受信に取り組む] 

短波を聞きたかった作間さんは逓信省に電話し短波受信の免許について尋ねる「そんなものはありませんよ。どんどん聞いて下さい」との返事。日本ではかつては中波のラジオ放送受信にも政府の許可が必要であったが、いつのころからか廃止され、短波の受信免許制度のみは戦前、戦中も残されていた。戦後すぐにこの免許は廃止され、誰でも自由に短波を聞くことができるようになった。作間さんだけでなく多くの国民もこの変更は知らなかったらしい。

作間さんは早速、軍から持ち帰ったエーコン管やRH管を近くのラジオ屋で電池管のUX-30などと交換し、鉱石受信機を作った時の本を参考にして電池電源の0-V-1受信機を作り短波を聞き始める。しかし「電池の補給が大変なので、並4をバラして作った交流式に変えるなど、徐々にグレードアップして短波放送から次第にアマチュアバンドを聞くようになった」と言う。

矢木さんと交信。受け取ったQSLカード

作間さんは昭和61年に初めて矢木さんに会った

[進学] 

昭和21年(1946年)4月、都立工業専門学校電気科(現・都立大学工学部)に入学する。当時は(旧制)中学卒業後の軍歴によっては編入が認められることになっていた。ところが、海軍の予科練(予科練習生)だった人は認められたものの、作間さんら特幹(特別幹部候補生)には認められなかった。文句を言いに文部省まで行ったが「教科に一般教科がなかったというのが理由らしかった」と作間さんは完全には納得できなかった。

作間さんの自作受信機はこのころにはスーパーとなり、DXを受信してはSWL(短波受信)カードを送るようになる。当時のJARLが制度として設けていたSWL会員となりSWLナンバー「J1-95」をもらう。14MHzCWのアマチュア無線を聞くことに夢中となった作間さんは、戦前のハムが編集していた雑誌「ラジオアマチュア」を読み「ますますハムの楽しさを知った」と言う。

「ラジオアマチュア」は昭和21年(1946年)7月に創刊され、JARLは一時、この雑誌を機関誌とすることを検討したこともあった。戦後、すぐに多くのラジオ、無線関係の雑誌が次々と発刊された。「通信青年」「無線と実験」「CQ ham Radio」「ラジオ技術」などもそうであった。

作間さんは、これらの雑誌をむさぼり読んだ。「雑誌は大いに勉強になった。JA2AC、村松健彦氏の短波受信記事は興味をもち良く読んだ」と当時を語る。しかし、アマチュア無線が容易に再開されないこともあり、やがていくつかの雑誌は廃刊されることになる。「ラジオアマチュア」もその一つであった。