[本当にアンカバーなのか] 

作間さんによると「当時の国内のアンカバーはほとんど14MHzのCWで、初めはC2**などのコールを使っていたが、そのうちにJ2**などのコールも出現し、ついにはAMでQSOするものも現われた」と言う。電波法違反として検挙された場合、機器を没収された上、拘留されたり、またそうならないまでも一定期間免許が与えられない処罰があった。このため、庄野久男(後のJA1AA)さんのように「情熱のあまりの不法行為。犯罪者扱いされた若者を救いたい」と行政に働きかけた人もいた。

庄野さんは今でも「当時の事態をアンカバーといえるのか」と考え込んでいる。作間さんは「庄野さんの活動のお陰かどうか行政でも寛大に扱ってくれた担当者も多かったようである」と推測している。さらに「どちらも法律違反に違いないが、合法的に免許が得られなかった当時と、資格を取って申請すれば誰でも容易に免許をえられる現在とでは同じアンカバーでも少し違うと思う」と主張する。

自作の受信機

[アルバイトで学費] 

JARLがアマチュア無線再開に備えて、各地に「無線クラブ」の設立を推進したことは触れたが、同時にさまざまな活動を行った。その一つに「HAC証」の発行がある。全大陸のアマチュア局を受信し、SWLカードを集めるもので「ヒャード・オール・コンチネンツ」の略である。当然、作間さんもこれに挑戦し「6大陸は勿論だが130カントリーほど集めた」ことを記憶している。ちなみに、この「HAC証」はJARL制定の初のアワードであり、しかも国内だけでなく海外のSWLも対象である。

そのころ、作間さんは5級ス―パーラジオを作っては必要な人に販売するアルバイトにも精を出ていた。戦後の国民の最大の娯楽がラジオ放送を聞くことであり、また、昭和26年(1951年)には民間ラジオ放送が開始され、ラジオ受信機の需要は高まっていた。当時のことを「一台6000円から7000円で主として友人関係に販売した。メーカー品の半分以下だった」と説明する。

この当時はメーカーが生産するラジオには物品税がかけられており、町の電気店や戦前のハム、さらにラジオ少年などが盛んに自作して安く販売していた。このため、電気店は「ラジオ屋」と呼ばれ、自作する個人はメーカーと比較して「アマチュア」と呼ばれていた。作間さんは「材料費は4000円から5000円程度。学費はこれだけで足りた」と言う。

[メーカー品に劣らない] 

これまでの連載でもしばしば触れてきたが、その「アマチュア」の中には税務署の訪問を受けて物品税分を徴収された人もいれば「私はすでに物品税のかかっている部品を集めて組み立てただけ」と拒否してしまった人もいた。作間さんの所には税務署は訪ねてこなかった。完成品は立派であり「経験上、綿密に調整したのでメーカー品より感度は良かった」と言う。

そのころ使用した部品は「ブランド名で言えばアルプス、トリオ、スター、3Q、パイオニア、オンキョーなどで品質は良かった。さらに部品メーカーによってはバリコン、コイル、ダイヤルの規格が統一され、シャーシ、ダイヤル付きのキャビネットも販売され、見かけもメーカー品並みのものができた」と、懐かしく振り返っている。これらの部品メーカーについていえばその後、消えていったり社名を変更したり、現在ではセットメーカーとして発展しているところもあり、戦後の電子工業の歴史を象徴しており興味深い。

もう一つ、作間さんにはこのころの思い出がある。ある時、アルプス(片岡電気)が抽選券付きのセールを実施、作間さんに1等賞のスター製の4バンド通信型受信機キットが当たった。「ネーミングはS-50Aスターチャンピオンで米国のハリクラフター社のS―40のコピーのようなものであった。うれしかった。アマチュア無線免許取得後にもサブ受信機として使った」と言う。

片岡電気の景品で当たった4バンド通信型ラジオのキット

[第一級アマチュア無線技士] 

アマチュア無線国家試験が行われた後も容易に予備免許が下されない状況に「別に免許取得は急ぐ必要はない」と作間さんは高をくくっていた。ところが昭和27年7月29日に全国の30名に予備免許が与えられたのを知り慌てることになる。当時の2アマは7MHz以下と50MHz以上のAM10Wしか出せなかったので、すぐに「1アマ」を受験をして合格。「ずうずうしくも最初から合格するものと決めてかかっていた」と言う。

その理由は「戦時中に一応CWの訓練を受け、工専・大学では電気を勉強したし、SWLとして自作も体験し、3級通信士にも合格していたので新しい法規の問題以外は心配していなかった」と説明する。したがって「欧文80文字、和文50文字くらいの送受信は全然苦にならなかった」らしい。

8月29日に1アマの免許を取得した後、11月18日に本免許・運用開始となるが、これまでもたびたび触れてきたように当時の複雑な開局までのプロセスをここでも紹介しておきたい。まず、9月3日に無線局免許申請書提出、10月11日予備免許、その後に試験電波発射届・工事落成届提出、11月8日落成検査、さらに本免許を受けた後も運用開始届を提出している。しかも、申請書や届の内容は極めて複雑、最後の係官による落成検査も厳格なものであった。

昭和27年11月開局。開局当時の作間さんのシャック

このように作間さんの場合は免許取得から3カ月足らずであり短期間での開局であったが、十分な知識をもっていたことや、すでに開局している先輩が近くにいたことがこのスピード開局につながったものと思われる。自作の受信機は高周波1段、中間周波2段のシングルスーパー、送信機は6AG7・6V6・2E22使用の3ステージ、終段サプレッサーグリッド変調だった。