[猛烈なパイル] 

作間さんの局は7.14.21MHzのA1.A3.10W。初交信は14MHzCWでの市川さんであった。その後は「国内はAM、海外はCWで夜討ち朝駈けで熱中した」が「7MHzでCWに出ると、JA局が少なかったことから日曜日の夜から月曜日の朝までは主としてW6~7(米国西海岸)あたりからパイル(猛烈な呼出し)を受けることになりうれしかった」こと思い出している。

当時は10Wを超えると高価なヘテロダイン周波数計を備えなければならなかっため、作間さんは「出力10Wで頑張っていたが、7MHzのCWでは使える周波数は3波のみのスポット。このため「島伊三治(JA3AA)さんや桜井一郎(JA3AF)さんなど強力な局が先に出ると、周波数がなくなって出られなかった」などの苦労もしている。「開局時のログ(交信記録)を見ると、開局後の2週間で約50局が記録されている」と作間さん。

[アマ再開後初のコンテスト] 

その年の年末、12月27日、28日にアマチュア無線再開後初のコンテストが行われた。主催は齋藤醇爾さん(後にJA7SSB)の企画による「DXタイム」というラジオ番組を放送していた京都放送(現KBS)であり、作間さんは交信局数53局で優勝する。「まだ、全国にアマチュア局が96局しかなかった良き時代のことである」と振り返る。

京都放送のコンテストで優勝。優秀カップと賞状

実は、この時斎藤さんは京大の学生であり、昭和27年(1952年)から32年(1957年)までの5年間アルバイトとして京都放送に勤務。日本で初めてのSWL、ハム向けの番組として、この「DXタイム」を企画しキャスター役をこなしていた。番組は毎週土曜日の夜11時から30分。民間ラジオ局が開局されたばかりで、電波伝播予報なども行っていた。斎藤さんは後年「最初のアマチュア無線コンテストの開催した思い出は今も忘れられない」と言う。

ただし、優勝した作間さんには少し不満があった。「主催者からの賞状と松下電器産業さんからの優勝カップを頂いた。その後しばらく交信の度に優勝カップを叩いて相手に音を聞かせたりして喜んでいたが、受信部門の一位の方はたしか賞品としてデリカ(三田無線)の受信機キットを頂戴したはずで、ちょっとうらやましかった」と苦笑いする。
[2位でビリ] 

翌昭和28年(1953年)5月5日、JARLが初めて主催する「第1回QSOパーティー」が開催された。「今度は21MHzシングルバンド部門で第2位に入賞した。しかし、実はビリでもあった」と作間さんは説明する。21MHzに出た局は4局、ログの提出は3局だけだった。

先にQSOを終えた海老沢政良(JA1DM)さんが第1位になったが「その後QSOした私ともう1局が同時刻だから仲良く2位だが、同時にビリ。でも、賞状には堂々と第2位と書いてある」と笑う。そして「この時は28MHz部門の参加者はゼロだったので、誰でも優勝できたはずである。ただし、相手さえおればのことですが」と、また笑った。

実はビリであった第2位のJARLからの賞状

[日本テレビ放送網株式会社入社] 

この年、昭和28年(1953年)前半は作間さんにとって慌ただしい年になった。2月に第1級無線技術士の免許を取得したが、この時は「現在のように履修課目によっては試験課目が免除される制度はなく、全課目が国家試験として科せられた」らしい。3月、東京工大を卒業。旧制大学最後の卒業生でもあり、また、昭和28年は新制国立大学最初の卒業の年でもあった。

作間さんは「日本テレビ放送網」に就職するつもりであった。同社は前年の7月31日に我が国最初の予備免許を得て10月に設立されたばかりであり、少しでも早くテレビ放送を開始する準備を進めていた。しかし、わが国では初めての民間テレビ放送であり、放送機器が間に合うのか、試験電波を出して郵政省の本免許がもらえるのか、課題が山積していた。このため、ぎりぎりまで社員採用を伸ばしており最終面接は3月31日。

このため、作間さんはすでに合格していた八欧無線に入社。大学進学前に勤務していた会社であった。ところが、その後に日本テレビから採用通知が届き、入社1カ月足らずで再び辞表を出すことになる。「当時の課長は事情を聞いて、日本テレビの技術顧問であった千葉茂太郎さんに紹介状まで書いてくれた。八欧無線には2度もご迷惑をかけて、今でも申し訳なく思っている」と言う。

[難航した初のテレビ開局] 

余談となるが、わが国初のテレビ開局はもめにもめた。簡単にいうと一つはテレビ放送の方式を巡って、放送周波数帯域幅を6MHzとするか7MHzとするかであり「6・7M論争」として知られている。その裏で政界や各種団体が動き、直接的にはNHK及びほとんどのメーカーと日テレ(日本テレビ放送網)の論争となった。アメリカと同じ6MHz方式を主張したのは日本テレビと八木秀次博士のみであったが、結局この方式が採用されることになった。

テレビ生産を計画していたメーカーは、同一方式の採用によってアメリカから大量の受像機が入ってくるのではと恐れた。しかし、その後の経緯は逆となり、同一方式の日本の受像機がアメリカ市場に大量に輸出されることになり、日本の電子産業発展の礎石ともなった。作間さんは「当時の実情は迷惑となる関係者が多く、公式には多くが語られていない」という。