[20分前の決断] 

昭和27年(1952年)のテレビ放送予備免許の話を続ける。予備免許の決定権を握っていた当時の電波管理委員会は、その年の7月31日午後11時40分、同委員会が解散となる20分前に他の申請を却下または保留とし、日テレのみに初の予備免許を与える決定を下した。巻き返しに出たNHKは威信にかけて開局を急ぎ、翌年の2月1日に放送を開始した。

最初に免許をもらったものの日テレの開局はそれより約7カ月遅れとなった。作間さんは、当時の電波管理委員会について「アマチュア無線局の予備免許は日テレの予備免許の2日前であり、あの時の委員会の行動がなければアマ無線再開も遅れていたのではないか」と同委員会の英断を評価している。このような当時の実情については昭和59年(1984年)に、日テレが最古のテレビ塔を解体するのに際して発行した「テレビ塔物語」に詳しい。

誰にテレビ免許を与えるかに関して、政界は当然としても、教育団体、地方公共団体、ラジオ商組合のほか、婦人団体、労組などから陳情があったという。時代が異なり、また、それを動かした背景があったとはいえ、このようなことに多くの国民が関心をもったということについて、今思うと不思議な気がするし、同時にあらゆることに無関心となった現在もまた不思議に思う。

戦後、疲弊した日本の産業・経済は昭和25年(1950年)に勃発した「朝鮮戦争」のおかげで急速に立ち直りつつあったが、生活はまだ豊かではなかった。このため、この年のメーデー5月1日、集った群衆は皇居前広場に押しかけ、警官隊が発砲するという「血のメーデー」事件が起きている。その一方で人々はテレビの予備免許にまで関心を持ったのである。

[開局準備大わらわ] 

それから1年後の作間さんに話を戻する6月17日、日本テレビ放送網入社。「入社した6月には建物は出来ていたがRCA社のカメラなど主要な放送機器はまだ入荷していなかった」と言う状態であった。今でこそ、放送機器のほとんどは日本の電機メーカー製が世界の放送業界を席巻しているが、テレビ放送開始時の当時は米国製と国産とに分れての設備導入となっていた。

作間さんの最初の仕事はテストパターンの製図。「次ぎに、配線図と工具・ハンダゴテを渡されてサブコン(副調整卓)などの配線作業をした」ことを覚えている。「同僚もみなハンダ付けなど腕に覚えのある面々であり」部品が足りなければすぐ秋葉原で買ってきた。作間さんら技術部の社員は次々に輸入されてくる放送機器を組み立てて、オーディオラックやパッチパネルなど数千カ所のハンダ付けをした。「機器はほとんどがRCA製だが足りない細かなものは自分たちで作ってしまった。ミキサーやアンプまで作った」と言う。そして、8月20日の試験電波発射、28日の開局に間に合わせた。放送開始当日は「ミキサーを担当しました」と言う。

[草創期のテレビ局] 

作間さんが就職した昭和28年(1953年)ころには、わが国経済は「高度成長時代」に入りつつあったが、同時に仕事は「猛烈時代」であった。作間さんの初任給は「確か1万4000円程度だった」とうろ覚えであるが「第1級無線技術士の資格をもっていたので、多少の上乗せがあったと思う」と言う。現在でいうところの「技能手当」ともいうべきものであろう。

初任給をもらった作間さんは「友人からもらって使っていたラペルマイクを代えたかったので、まずリオンの砲弾型クリスタルマイクを買った」と言う。この昭和30年前後には「それまで交信した海外からのハムの何人かが自宅や職場を尋ねてきた。いいかげんな英語と、とにかくウイスキーで何とか友好を保った」らしい。

[NG場面の放送] 

勤務はとにかく多忙であった。スタジオ・中継の番組制作技術担当として、ミキサー、カメラ、スイッチャ―、時には音効(音響効果)までこなしていた。番組は「ドラマ、音楽、対談、ファッション、歌舞伎、新派、寄席、野球、ボクシング、アイスホッケー、競馬、競輪、何でもこなした」と言う。VTRのない時代でありすべて生放送、トランジスターが利用されていない真空管時代であり「機材はすべて大きく重かった」と、重労働だったことを語る。

「カラーテレビ放送などは夢の時代で白黒放送だったが、その白黒カメラのイメージオルシコン撮像管は1本で年収の5、6倍した」らしい。また、街頭の27インチのテレビ受像機を数百人の観衆が見つめていた。よほど裕福な家庭でなければ受像機は買えなかった。映像を送る放送局も生放送のためしばしばとんでもない映像を送ってしまった。

日本テレビの主なスタジオは2つしかないため、ドラマでもリハーサルの時間は十分に取れず、本番でミスがそのまま放送されるのは日常茶飯事であった。「出演者以外の人物が写ってしまうことを”特別出演”と呼んだが、建物のミニチュアセットの前に大男が立ったり、宇宙空間のはずのバックを大道具さんが歩いていたりした」と作間さん。

さらに傑作なことを作間さんは披露してくれた。「ある時、ソバの注文を受けて出前にきた蕎麦屋の出前のおじさんが通路を間違え、セットの後ろからのぞいたたこともあった」一度画面で見てみたい情景であるが、当時の視聴者はあるいは黙って許していたのではという気もする。作間さんも「珍談奇談は無数にあるが、皆新しいことを求めてあえて困難な演出に取り組んでいたのも理由である」と、弁解している。

開局当日の番組確定表。当時は昼2時間、夕方5時間弱しか放送がなかった