[消えた仏像] 

もう一つ、わけのわからないドラマになってしまった話がある。タイトルは「消えた仏像」であり、なくなった仏像を探すサスペンス番組だった。主役が扉を開けると、そこにあるはずの仏像がなくなっていることから始まるドラマであった。ところが、小道具係が前のシーンの後に仏像を取り出しておくのを忘れたため、扉を開けると仏像がある。「あっ、仏像がない」と叫ぶはずだった主役は困ってしまった。

そこで「無い、無い」と叫びながら自ら仏像を取りだし、画面外に運んでしまった。が、その情景はカメラがすっかり捕らえて放送されてしまった。「全編が無くなった仏像を探し出し、犯人を捕まえる物語。最初に隠した犯人がわかっているのに、筋書き通り後に別の真犯人が出てくることになり、もう何が何だか分らないことになってしまったらしい」と、作間さんも失笑する。

このころの作間さんの思い出の一つは音楽番組の草分け「ニッケジャズパレード」。作間さんが100回以上もスイッチャーを務めた番組であった。当時のジャズ歌手の殆どが出演しているが、後にテレビ界の大御所となった大橋巨泉さんが初めてテレビにかかわり、また11PMで巨泉さんと名コンビを組むことになる朝丘雪路さんが歌手として初めてテレビ出演した番組でもあった。「美人モデルのヘレン・ヒギンスさんがカバーガールとして網タイツ姿で登場するだけで、当時はおじさん達が目を丸くする映像だった」と作間さんは言い、もちろん全編生放送であるが「この番組ではNGは1度も出していません」とやや自慢げである。

[スプートニク受信] 

昭和32年(1957年)10月4日、当時のソビエト連邦は世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた。衛星は20MHzと40MHzの信号を発射しながら地球を周回した。その後、2号、3号と打ち上げられたが日本テレビもその信号を受信し放送することになった。ところが局にある短波受信機は時報修正のためのJJY(標準電波)受信用で、18MHzまでしか受信できなかった。

このため、作間さんは当時技術部長であった磯文雄(後のJH1NTV)さんに頼まれその頃使用していた受信機「BC779B」を自宅から会社に運び込んだ。「BC779B」は、米国のハマーランド製の受信機「スーパープロ」(高周波2段・中間周波3段・5バンドのシングルスーパー)の周波数帯を一部変更した軍用受信機で「19インチラックに収まる大きさで、ほぼ同じ大きさの電源と合わせて重さは約30Kg。苦労して運び、信号は強力に受信できたがニュースの放送にはピーピーという受信音と、ピクピクと動くSメーターやダイヤルの一部の画面しか出てこなかった」と、当時はやや不満だったらしい。

この受信機は昭和30年頃購入したもので「電源とともに価格は4万円程度、月収の2カ月分以上だった。受信範囲は20MHzまでだったので、21MHz、28MHz・50MHzも受信できるようにクリコン(クリスタルコンバーター、周波数変換器)を付けてダブルスーパーにして長く使った」という。ただし数年前に「大切にしてくれるという知人にただでお譲りした」と言う。

[早朝放送] 

日本テレビはそれまでの昼2時間、夜5時間の放送に加えて、昭和31年(1956年)10月に朝6時半から9時までの早朝放送を開始した。この朝のテレビ放送は日本テレビが初めて実施したものであるが、そのための増員はゼロだった。そのため技術スタッフは人手が足りず、朝は特別に小人数で出来るように局内の配線を一部変更し、従来の勤務に加えて週2回の宿泊勤務で実施した。 しかし朝だけの特別体制のために放送事故も多く、やがて昭和33年5月局内に専門の「朝放送班」を置くことになり、作間さんはその技術主任に就任した。早朝放送のほか、午前中の放送があればすべて担当することになった。

早朝放送を開始してますます多忙となる。左端がスイッチャ―担当の作間さん

技術担当は作間さんを含めて9人。放送に休日は無いから交替で常に1人か2人が公休のため実質は7人か8人であり、そのうちの6人は4月に入社したばかりの新人。「このため毎日が実戦訓練の様相をみせていたが彼らの進歩も早く、技術に起因する事故は少なかった」と言う。

それでもトラブルは起きた。ある日カメラ2台の1台が故障し、修理しても原因がわからない。そこで、隣のスタジオからカメラ、カメラコントロールユニット、電源ユニットを次々に運び込んで交換してみても直らなかった。「最後に太さ2インチのスタジオカメラケーブルに画びょうが刺さっているのを見つけた時にはがっかりした。結局、この日はカメラ1台で、フェードイン、フェードアウトを繰り返しながら放送を続けた」と言う。

[皇太子ご成婚] 

昭和34年(1959年)4月10日、当時の皇太子殿下(現天皇陛下)のご成婚の中継が行われた。この日を前に白黒テレビの需要が爆発。家電販売店間では商品の奪い合いとなり、メーカーの工場まで押しかけ製造ラインの終端で待ち受けて、そのまま持ち去るケースもあったほどであった。

この日、作間さんらは朝6時~9時の朝放送を済ませてから、東京信濃町の現場に行き、四谷3丁目から神宮外苑までのパレード生中継を担当し、終了後すぐ撤収し国立競技場の祝賀会の中継応援に駆けつけた。作間さんは「良く働いたものである」と自ら感心している。この時は「1社1系列では中継車その他全てが不足でパレードの中継ができないため、ライバルテレビ局同士が協力した」という。

日本テレビとフジテレビ、TBSとテレビ朝日がそれぞれ協力して民放は2系列で放送した。「史上初で多分最後であろう」と作間さんは言う。作間さんは緊張と疲れで「パレードが信濃町から神宮外苑に入り、外苑を担当するフジテレビの中継車からの最初の画像が送出されたとたんに全身の力が抜けるほどほっとした」ことを覚えている。

この時、四谷3丁目~信濃町は直線では近いが、見通しのきかない1Km、道路に500mものケーブルは張れなかったため、木俣省栄(JA2IY)さんが製作した手作りのワイヤレスカメラを使用している。完成して間もなくでもあり、扱いが難しいのでカメラマンも木俣さんが担当した。木俣さんは後に研究室に属して多くの新技術を開発、民放大会での受賞も多く、アメリカのNAB(全米放送事業者協会)大会でも発表するなどの活躍をしている。

皇太子ご成婚パレード中継本番直前の信濃町中継グループ