[NTVハムクラブ] 

昭和36年(1961年)から昭和43年(1968年)の間、作間さんのアマチュア無線活動は休止状態となる。放送局の仕事は中間管理職の道を歩き始めており、相変わらず多忙であったが、加えて結婚と住まいの移転、さらに子供の誕生と私生活も忙しくなったのが理由である。「今、調べて見るとログは昭和36年(1961)6月に片岡基(JA1EHA)さんとの交信を最後にぷっつりと切れている」と言う。

しかし、仕事場のハム仲間の活動は活発だった。昭和37年(1962年)2月に厚生部所管のリクレーションクラブとして「NTVハムクラブ」が誕生した。片岡さん、平川定広(JA1FSL)さん、小原沢泰二(JA1FWR)さんなどが中心となり、初代の会長には当時の技術局長吉川政義さんが就任した。「予算ももらい、早速個人のコールサインで社内で移動運用を公開したりした。後に開局したクラブ局JA1YJRはフィールドデーで優勝したり当時から結構アクティブに活動した」と作間さんは言う。

[モーレツ社員] 

この年の5月に作間さんはスタジオ制作部門から番組の送出とVTRやテレシネを担当する部門に異動する。画像は白黒からカラーへの転換期であり、送出スイッチングも手作業から部分的に原始的な「さん孔テープ式」さらにコンピューター制御へと自動化が進んでいく時代だった。番組送出・テレシネ部門の責任者となった作間さんはそれまでの早朝放送とは反対に週に2日は24時過ぎの放送終了まで勤務した。 また「スタジオと違い、1日中火が入り放しだから真空管の劣化が早く、3カ月に一度ずつ数百本の球を交換する」ことに追われていた。

しかも、現場は3交代で人員の余裕がないために作間さん以下3人くらいで毎回徹夜での交換・調整。「その翌日もちゃんと仕事をしました」と言う。また後に労働組合の活動が活発になり放送局でもストが頻発するようになると「ストライキの時は当初は他に出来る人がいないので3交代するところを交代なしで主調整室で弁当を食べながら1日中マスターのスイッチャ―をやった」らしい。このころ日本経済は高度成長時代に入っており、多くの企業で「モーレツ社員」が生まれ、やがて「企業戦士」という言葉が誕生していく。そんな時代でもあった。

[藤村有弘さんハムに] 

石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、二谷英明らと日活映画の黄金期を支えた俳優に藤村有弘さんがいる。戦後間もなくNHKが放送した「鐘の鳴る丘、三太物語」などに少年役で出演して以来、映画、テレビで活躍したが、実は子供のころから海外の短波放送を聞くSWLでもあった。

その藤村さんはアマチュア無線に興味をもっており、それを聞いた片岡さんや平川さんらが、助言したり指導し、昭和41年(1966年)にJH1BANのコールサインを取り、DXでも活躍した。ニックネームは「バンサ」で、コールサインもそれにちなんでいる。SWLで聞いた東南アジアの現地語が語尾に「バンサ、バンサ」と聞こえ、面白いためそれを真似ているうちに「バンサ」と呼ばれるようになった。

残念なことに昭和57年に48歳で死去された。現在、インターネットで「バンサの想い出」を検索すると「芦川いづみさんの部屋リンク」があり「日活映画のページ」が表示され、そこに「Villa di VANSA」のページがある。それによると、JH1BANのほか、JR2BAN、JH3FFFの三つのコールサインをもち、名の知れたハムのOMとも交流が深かったようだ。

[移動局免許] 

昭和30年(1955年)2月に移動局の免許が認められるようになり、多くのハムが自作の移動可能な小型機を自作しだした。また、ある程度は希望するコールサインがもらえるようにもなっていた。 当時NET(日本教育テレビ)という名称であったテレビ朝日の重役森本重武(元J2IJ)さんは、それを利用しJA1NETのコールを得た。それに刺激を受けた作間さんは、昭和38年(1963年)9月、会社の許可を貰ってNTV本社を常置場所とするJA1NTVの移動局免許を申請する。ところが、当初は固定局、移動局のコールサインは別に免許されていたものが、そのころには同一コールサインへと方針が変わっており、結局、JA1BCで移動局免許を取得することになった。

現在は、常置場所を自宅としてHFの固定100Wとオールバンド移動50Wの2つの免許で運用。「電波料は2倍かかるが、便利なこともありむしろ良かったと思う」と言う。断念したJA1NTVは2003年に再割り当てされるまではブランクであった。その代わり後に当時の上司で技術局長の磯文雄さんがJH1NTVを取り2代目のハムクラブ会長となる。磯さんは戦前のアマチュア無線の黎明期に活躍した磯英治さんの甥である。作間さんは「磯さんにJH1NTVを取っていただいて満足した」という。

[1円50銭] 

余談であるが、面白い話題として以下紹介したい。磯英治さんは、大正15年(1926年)に、東京の蔵前高工を卒業し逓信省の電機試験所に就職、7MHzで電波を出していた。まだ免許制度がない時であり用心しながらの交信であった。同じ東京の仙波猛さんとの交信がその年の4月か5月ごろでき、東京駅で落ち合う話がまとまる。摘発を恐れて決してお互いの住所は交信でも明かすことができなかったからである。

東大生だった仙波さんは、当日、名乗っていたコールサインJ1TSの小さなカードを手にもって、待ち合わせ場所の東京駅2等待合室に立っていた。ところがいつになっても目印のカードを持った相手が現れない。しばらくして、カンカン帽をかぶった青年がやはり人待ち顔で当たりを見回しているのに気付いた。

カンカン帽を良く見ると1.50(1円50銭)と書かれた正札が付いている。「あわて者がいるものだなあ、と仙波さんはおかしかった」と後に言っている。そのうちに仙波さんのカードに気付いたカンカン帽の青年がにっこり笑って近寄ってきた。「あなたがJ1TSさんですか。僕、JISOです」と。正札ではなかった。磯さんのコールサイン1SOと書かれていたのである。この話は、元朝日新聞記者だった小林幸雄さんの「日本アマチュア無線史」に詳しく書かれている。