[ケネディ暗殺] 

昭和38年(1963年)11月23日、宇宙に打ち上げられている米国の通信衛星リレー1号を使い、初の日米テレビ中継の実験が行われた。日本時間午前5時27分からの20分間、同8時58分から17分間の2回の予定で、番組は当時のケネディ米国大統領からのメッセージが送られてくることになっており、すでに録画は終わっていた。短時間なのはリレー1号衛星が低軌道を飛んでおり、日米間の伝送が可能な時間が20分に限られていたためである。

日米間で実時間で映像が伝送されるこの実験は、放送、通信業界だけでなく両国の国民にとっても大きな関心事だった。しかし、第一回の中継直前になってケネディ大統領の番組は中止するとの連絡があり、画面には広漠たる砂漠の映像が届いた。第二回の中継で初めてケネディ大統領の暗殺が伝えられた。画期的な中継実験は悲しい番組を伝えて成功した。

[クラブ局開局とJLRS来局] 

翌年5月、NTVハムクラブは、クラブ局JA1YJRを開局した。ほぼ同じ時期にテレビ朝日がJA1YHC、フジテレビがJA1YJWを開局し、その後にTBS、12チャンネルもそれぞれクラブ局を開局しており、いずれも現在でも活躍している。昭和40年(1965年)の7月にはJLRS(ジャパン・レディス・ラジオ・ソシャイティ)のメンバー約20名が見学に訪れた。

JLRLは、昭和32年(1957年)7月に阿部芙美(JA1AEQ)さん、菅邦(JA1YL)さん、小林きみ(JA0EC)さんらが立ち上げた女性ハムの集りであり、現在メンバーは国内で260局強、海外で100局弱の組織となっている。年次総会を開催し、アワードを発行するとともにコンテストを実施しており、活発な活動を続けている。現在は井上由美子(JA1NWB)さんが会長である。

翌年5月に東京・厚生年金会館で開催されたJARL総会での「福引」で、作間さんに1等賞のホンダ製発電機E300が当たってしまった。「その後はこの発電機をクラブの移動運用に盛んに使いました」という。このころには再び、アマチュア無線との接触が増えだし、昭和43年1月には無線機メーカーの送信機キットを買って組み立て、アンテナも従来の逆Lから14AVQに代えている。

[富士山頂からテレビ放送] 

昭和43年(1968年)1月作間さんが技術局放送技術部長に就任して間もない5月16日、十勝沖地震が発生。電話回線も不通となったが、北海道に設置されていたマイクロ回線中継局の台座がずれたため、系列局である札幌テレビとの連絡は完全に途絶してしまった。この時、NHKは各地域にある放送局のアマチュアクラブ局を活用して情報を収集した。このため、7月の報道部門のNTV系列会議「NNN総会」では、各局のアマチュア無線クラブ局による非常通信網の設置が審議されている。

8月3日には「木島則夫ハプニングショー」で、富士山頂からのアマチュアテレビ通信の模様が放送された。富士山頂には荒川賢(JA1AKA)さんが登り、430MHz帯で送信、受信はNTVクラブの牧野和侑(JA1BUZ)さん。この時、作間さんは50MHzを使っての連絡を担当した。

司会者の木島さんへの説明役は当時のJARL会長であった村井洪(JA1AC)さんに依頼している。生番組であったが送受信に成功し話題となった。荒川さんが選ばれたのは、その年の3月に渡辺千晴(JH1DWJ)さんとの間で430MHzのカラー映像を1.5km伝送に成功していたからであった。また、この日、山頂の荒川さんは那須茶臼岳の明星大学クラブ(JA1YNW)との間で、430MHz、230kmの山頂間の交信記録を作ってもいる。

富士山頂からのテレビ中継。真中で手を広げ解説しているのは村井さん

[初の海外旅行] 

昭和44年(1969年)5月、作間さんは初めての海外旅行に出かける。「春闘が長引いて予定が立てられなかったために出発の10日前に急に命じられた。 スイス・モントルーで開かれるテレビシンポジュームへの出席と、欧米のテレビ技術視察が目的だった」と言う。スイスに10日間滞在した作間さんは、シンポジューム会場でドイツのメーカーであるフェルゼン社のスイス地域支配人(ハムでもあった)と知り合い、その紹介で予定外のジュネーブのテレビ局を見学したりした。この局でもカラー化工事の最中であった。スタジオでは「子供番組のロンパールームを収録していた。スタジオの隅で母親達が心配そうに我が子を見つめているところまで日本と全く同様であった」という。

ジュネーブでは作間さんはITU(国際電気通信連合)初代日本代表の西崎太郎氏に会い、自宅に招かれご馳走になった上に西崎さんの紹介でITUを見学、4U1ITU局をオペレートしている。「当時のリグはすべてハリクラフター製であった。」とその時のことを語る。また、ハムでもあるCCIR(国際無線通信諮問委員会)の議長にも紹介されている。ブラッセルではEBU(欧州放送連合)オペレーションセンターを訪ねると、当直技術者がハムであった。作間さんは「海外でもハムがさまざまな分野で活躍していることを知った」という。

ジュネーブで4U1ITU局を運用する草間さん

[連日の団交・ストライキ] 

1カ月の単独海外出張から作間さんは日焼けして帰国した。「スイスでちょっとエスケープしてマッターホルンやアイガーを眺めたり、アメリカ経由で帰国の途中にハワイで泳いだりしてきたため」と説明する。帰国翌日、専務に呼び出され、労務部長を命じられる。「昭和44年(1969年)から50年(1975年)は放送業界で組合がもっとも強い時期であった」と作間さんは言う。労務部長はその組合と最前線で掛け合う役目である。 同僚からは「同情もされたが遊んできた罰だと冷やかされた。 真面目に集めてきた多くの資料は全部後任の部長に引き渡した」そうである。

それからは「連日の団交・頻発するストライキ、ピケだ、スティインだ、などと目の回る毎日の数年間であった。それでも、幸い良い上司・部下に恵まれ労使の信頼関係を大切にしながらも頑固に是々非々で通したから何とか保ったようなものであった」と、当時の苦労を思い出している。しかし、多忙を癒し、気晴らしの役を果たしたのがアマチュア無線であり、昭和44年(1969年)9月からはSSBに出始める。