[NNN系列非常無線連絡協議会] 

昭和44年(1971年)NTV系列の基幹テレビ局5局のハムクラブが集り、合同ミーティングが開催された。十勝沖地震の後、局内の報道部門から要請されていた非常通信網づくりが目的の会合であった。翌年11月には、全系列局のハムクラブ代表者が出席した「NNN系列非常無線連絡協議会」が開催され、地域ブロックごとに会議を開催して組織を整えることが決定された。

この時は、NTV編成局の福本隆(JA1MZG)さんが中心となって、各局に社としての説明を行い協力を求めた。まだクラブ局の無い社もあったため、定時連絡などを行いながらかなりの時間をかけて全国組織まで発展させている。「この件では秋田放送の三浦恒裕(JA7AB)さん、読売テレビの竹内真夫(JA3AQ)さん、広島テレビの浦岡博(JA4CTL)さん、南海放送の松本純一(JA5AH)さん、その他数え切れないほど多くのハムの方々にお世話になった」と作間さんは言う。

クラブ局JA1YJRはしばしばフィールドディコンテストに参加した。赤城山で

[JARL中央裁定委員長] 

この間も、作間さんの個人的なハム活動は続いている。昭和45年(1970年)2月にJARLの中央裁定委員(現在の裁定員)に就任している。作間さんにとっても唐突らしく「どなたに推挙していただいたのか分らない。ひょっとしたら木賀忠雄(JA1AR)さんだったのかも」と推定している。裁定委員は、JARLの役員選出選挙の不審をただす選挙管理会で処理できない問題を審査する役割である。

木賀さんは、大正7年生まれ。無線機器メーカーに勤務した後、昭和47年(1972年)から6年間JARLの初代専務理事として勤め、その後は昭和58年(1983年)まで、JARLの技術研究所長だった。著書も多いが、岡本次雄(JA1CA)さんと共著の「日本アマチュア無線外史」は、技術面からわが国のアマチュア無線の歴史を追った貴重な書籍である。

この年のJARL主催の「フィールドディコンテスト」で、NTVハムクラブJA1YJRは群馬県の白根山から参加し、クラブ部門で優勝している。「フィールドディコンテスト」は、毎年8月の第1土曜日21時から翌日の15時までの交信数を競うものとして行われており、今年(2005年)は48回を数えている。昭和47年(1972年)には、作間さんはJARLの中央裁定委員会委員長(現在の裁定長)に選ばれている。

[ウガンダのテレビ局支援] 

この年、昭和47年(1972年)に、ウガンダのテレビ局の技術指導のためNTVから社員が派遣された。長期出張となったのが手島弘毅(JF1DNE)さんだった。手島さんは「ついでに現地でアマチュア無線を」と意気込んだが、当時のアミン大統領支配下では許可にならなかった。ウガンダには唯一、ドイツ人のウド・ウエーバーさんが5X5NKを開局しており、手島さんはそのシャックを拝借して日本のハムと交信した。 この時交信した作間さんは「手島さんがウガンダの夕焼けの美しさを伝えてきたことが印象に残っている」と言う。

そのウドさんが夫人同伴で昭和50年(1975年)に来日した。「NTVハムクラブは、ウガンダでお世話になった恩返しに大歓迎し、盛大な晩餐会(実は中華レストランで会食)を開催して、そのころは貴重品であったカード型の電卓をプレゼントした」また、「ウドさんからはお土産に現地の太鼓(タムタム?)のミニチュアをいただいたが、今でも家にあります」と言う。手島さんはその後、ヨーロッパに出張したが、すでにドイツに帰国していたウドさんと「感激の再会をした」と言う。

[JA1YJRアワード] 

昭和48年(1973年)6月、作間さんは人事局次長兼人事部長に異動。「そのころは労使関係もかなり正常化されていたが、それでも直接の担当からは外れて一息ついた」とほっとしている。この年はNTV開局20周年。記念行事として「NTVアワード」を発行している。条件は簡単であった。「クラブ局のほか、クラブ員2名以上との交信であり、3カ月の期間限定であった」と言う。

このころにはクラブ員は約30名。上位の入賞者には各方面のご協力も頂戴して賞品を提供した。「賞品にはリグなどもあり、50位程度まで記念品をお渡しするなど豪勢だった」と作間さんは記憶している。この時の上位入賞者は山崎伸(JR1EBZ)さん、山本勝美(JA1VMQ)さん、佐藤征一(JA1HZL)さんだった。その後「このアワードは開局45年まで5年ごとに6回行われました」と言う。

開局20周年を記念して「NTVアワード」を発行した。写真は記念カード

[大晦日のハム交信生放送] 

大晦日の定番番組は「ゆく年くる年」であるが、昭和50年(1975年)の12月31日から翌年1月1日は、NTVが担当して全民放の合同番組となった。この時に、総合プロデューサーとなったのが、ジャズピアノの名手でもある白井荘也(JI1RRE)さんであり、後に白井さんはマイケル・ジャクソン初来日の折りに、NTVの独占放送権を獲得するという活躍をした。白井さんはこの時のテーマ「みんなと話そう」にちなみ、ハムの交信をナマ放送する企画を立てた。

気象庁の方々の協力を得て、富士山頂の測候所クラブ局JA1YYN局、靖国神社のモービル局とがスタジオに設置したNTVクラブ局JA1YJRと交信した。スタジオではハム免許もつタレントの木元教子さんがクラブメンバーに登録されて交信した。靖国神社では作間さんが運転手兼中継ディレクター兼フロアマネージャーの「一人3役のボランティアを務め」て、片岡基(JA1EHA/1)さんが初詣風景を伝えた。

「ナマ放送のため妨害を心配し、当時はまだ珍しかった430MHzFM波を使用したことと、当時は不心得者もあまりいなかったことから無事に放送を済ませることができた」と、当時を語る。精工舎による一社提供の民放全系列同一放送。「NHK以外の全国のテレビ放送局ですべて同時にハムの交信が流れた。空前絶後のことだろう」と言う。