[エンテベ空港事件] 

日本テレビの社員にハムが多いこともあり、偶然あるいは計画的に勤務外でも活躍することが少なくなかった。昭和51年(1976年)6月ウガンダのエンテベ空港で、ハイジャックにあった人質を救出するスリリングな事件があった。約30年前の事件でもあり簡単に解説しておく。ハイジャックされたのはテルアビブ発パリ行きのエールフランス機。パレスチナ開放人民戦線のテロリストら8名が、イスラエルに収監されている40名のテロリストの解放を要求して起こした。

ハイジャック機はリビアのベンガジ空港経由でウガンダのエンテベ空港に着陸。乗客256名のうち、イスラエル人とユダヤ人83名がターミナルビルに移され、その他の乗客は開放された。当時、ウガンダはイスラエルを敵視しており人質はウガンダ軍の監視下に置かれていた。イスラエルは強行策を取り、救出のための軍を派遣し、深夜に密かに空港に乗りこみ、人質を救出した。人質3名、イスラエル兵1名、テロリスト全員、ウガンダ兵45名が死亡した。

この事件の時、NTVからウガンダに手島さんの後任として高松威(JA1BBN)さんが派遣されていた。事件発生時に現場にいた唯一の日本人マスコミ関係者となった高松さんは取材を行い、報道記者顔負けの活躍をしたという。作間さんによると「高松さんのお宅には現地の衣料・諸道具が揃っており、時々これらを着用してウガンダ気分に浸っている」そうである。

[愛は地球を救う] 

昭和51年(1976年)作間さんは総務局長に就任する。その任期中に日本テレビは昭和53年(1978年)に隣接する旧IBMの土地を取得して南本館を、同57年(1982年)に開局時の建物を解体して北本館を建設し本社の拡張を進めた。南本館完成の年には人気大型番組となる「24時間テレビ・愛は地球を救う」が誕生している。毎年8月に企画されるこの番組は、土曜日の夕方から日曜日の夕方までナマ放送で送られ、平成17年には過去最高の24時間平均19%を記録するなど毎回ずば抜けた高視聴率を誇っている。

この番組は、募金やグッズの販売を目的とした系列局を挙げての全国チャリティー番組でもあり、平成17年までの28回で約243億円を集めて、福祉施設に福祉車両を寄贈したり、災害地への援助、地球環境への支援などを行っている。NTVハムクラブ局JA1YJRも、毎年記念カードを発行するなどの活動を続けており、全国各地にはボランティアで記念交信を行ってこの番組を支援してくれているハムも多い。

「愛は地球を救う」番組で発行したQSLカード

[テレビ塔解体] 

昭和54年(1979年)作間さんの自宅にようやくアンテナタワーができあがる。そして翌年、NTVが予備送信所として使っていたアンテナタワーを解体することになった。このタワーはテレビ放送開始を前に、昭和27年(1952年)に建設された日本最初の高さ150mの規模。昭和33年(1958年)に高さ333mの東京タワーが完成し、送信所が移転した後は、万一のための予備送信所として10Kwの送信機とともに残されていた。

その後、北本館建設のために、1Kwの予備送信所が新宿の新宿センタービルに移され、27年間役目を終えて取り壊すことになった。「都会の真中でこのような規模の鉄塔を解体するのは建設業界でも初めてのため、鉄塔と同じ高さのトラベリングクレーンを隣に建て、最上部から少しずつ切り離して降ろす方法がとられた」と当時を作間さんは語る。このタワーに取り付けられていた日本で最初の12段スーパーターンスタイルアンテナは、記念として今でも千代田区二番町NTV旧本社の南館玄関脇に立ててある。

解体前のアンテナを使用してのアマ無線送信実験

[テレビ送信塔での運用] 

NTVのテレビ放送周波数は約170MHz,アンテナはバンド幅6MHzの無指向性水平偏波,利得は10.68db、長さ135mの給電線は同軸パイプWX-120Dを使用、損失0.37dBである。作間さんらは「これを144MHzのハムバンドで使えないか」と無謀なことを考えたらしい。

ハムは同じようなことを考えるらしく、名古屋では村松健彦(JA2AC)さんらCBC中部日本放送のハム達も、市内・緑区鳴海にあったラジオ放送用アンテナ塔の解体を前に、ハムバンドで運用しようとして挑戦している。作間さんらはタワーが放送局としての免許を終了し、解体されるまでの間にクラブ局JA1YJRを運用し「結果は上々で多数の局に記念カードを送った」と言う。ちなみに、CBCの場合は失敗しており、そのことはすでに終えている連載「ラジオ少年・ハム・放送局勤務の人生」に詳しく書かれている。

「解体された日本で初めてのRCA製10KW空冷式テレビ送信機も27年間の任務を終えた」と作間さんはやや寂しげである。入社して、無我夢中で映像を作り、送り届けることにまい進していた時代の機器だからである。解体時に部品の一部は希望者に譲渡された。作間さんは「終段の10KW用ダミーロードはドラム缶くらいの大きさなので、エキサイター調整用の300Wダミーロードを頂戴し、現在も大切に使っている」と言う。

作間さんが現在でも使用しているダミーロード

昭和56年(1981年)6月、作間さんは取締役に就任する。翌年7月には「テレビジョン学会」の評議員に選出され、さらに9月には取締役技術局長に就任、13年ぶりに古巣の技術畑に復帰するとともに、民間放送連盟の技術委員に選ばれる。「技術委員会は東京、大阪の民放局と各地域からの技術責任者代表30名程度で構成されるが、歴代の委員には文化放送の海老沢政良(JA1DM)さんはじめハムの方が大勢おられた」と言う。

その後も局内外での要職を担うことになる。民間放送連盟では技術委員会「VTR専門部会」部会長、郵政省電波技術審議会専門委員、同省「テレビジョン同期放送に関する調査研究会」委員となるが、社内ではやっと技術に戻った翌年の昭和58年(1983年)6月には再び管理畑に移り取締役人事局長に就任し民間放送連盟では労務委員となっている。