[テレビ業界での活動] 

NTVの人事局長となった作間さんは、通常の人事業務の他に会社と労働組合との間で起こされていた訴訟案件8件について精力的に交渉を重ねた結果すべて和解することで労使双方の懸案を解決。両者の調印が完了し、1年で再び技術局長に戻っている。一方、社外では郵政省や民放連などのテレビ業界に貢献する役割が増え出す。以下、その役職を列記する。

昭和59年(1984年)6月=民放連・技術委員兼デジタル音声専門部会長、 昭和60年(1985年)5月=郵政省・電気通信技術審議会専門委員、 同6月=郵政省・テレビジョン放送画質改善協議会作業部会委員、 同7月=テレビジョン学会評議員、 昭和61年(1986年)2月=郵政省・テレビジョン文字多重放送普及促進協議会作業部会委員

[民放大会で記念局] 

昭和61年(1986年)11月に東京のホテルニューオータニで民放大会が開催された。同大会は全国の民放局の持ち回りで開かれることになっているが、この年は民間放送開始35周年の記念に当たり、日本テレビが当番社となって東京で開催された。この時、NTVハムクラブはJARL、在京民放ラジオ・テレビ全局の協力を得て、特別記念局を開設することになった。場所は民放大会にあわせて池袋サンシャインで開かれている「国際放送機器展」の会場。

事務作業は「JARLの当時会員業務部長であった野口幸雄(JA1MKS)さんと業務課長であった森章和(JF1JSP)さんのお世話になりながら、そのほとんどを片岡基(JA1EHA)さんが担当した」と作間さんは言う。記念局8J1NABの開局初交信はJARLの当時の専務理事・熊谷誠(JJ1WUC)さんが行った。会場には当時民間放送連盟会長でもあった日本テレビの小林與三次社長をはじめ多数の民放局幹部の来訪があった。

この時に設備面で協力したのは秋葉原の「ハム月販」であり、放送機器展終了後の運用は各放送局へ移動した移動局によって行われた。作間さんは「これを契機として在京各民放局のハムクラブが極めて親密になり各社持ち回りで毎年合同1泊ミーティングなども行われ、一時は参加者が50名を超えるほどの盛況だった」と言う。このため、各局の保養施設などを利用する時は人数制限をすることもあった。「最近はOBの方が多いが・・・」と寂しげである。

民放大会に開設された記念局。当時の小林民放連会長に説明する作間さん

[チョモランマからの生放送] 

昭和62年(1987年)6月29日、技術局長のまま作間さんは常務に昇格し、この年の12月18日には技術局長職が外れ常務専任となる。その翌年5月5日の「子供の日」にNTVは画期的な画像を国民に送った。世界最高峰であるチョモランマ山頂にカメラを揚げての撮影であった。かつてエベレストと呼ばれていたこの山は、最近ではチベット名のチョモランマが正式名となっている。なおネパールではサガルマタと呼ばれている。

標高8848mのチョモランマの初登頂は1953年のニュージーランド人ヒラリー卿とシェルパのテンジン、ノルゲイの3人によって成し遂げられている。日本人では1970年に松浦輝男さん、植村直巳さんらによる「12登」が記録としてあるが、頂上からのテレビ生中継は世界でも始めてであった。この時の登山は日本・中国・ネパールの三国友好登山として中国側とネパール側から同時に登頂し頂上で合流するという各国山岳会にとっても画期的なものであった。

チョモランマ山頂からの生中継は現地の指揮に当った日本テレビ岩下莞爾ディレクターの8年来の悲願であった。放送は予定通り五月五日の午後、登頂が成功し山頂からのナマ映像が送られてきた瞬間からであったが、日本テレビ社内ではスタッフ一同が朝からずっと最終アタック登攀の一部始終の映像をを見つめていた。「特にカメラマン中村進さんのヘルメットにつけたCCDカメラの映像は文字通り手に汗を握る迫力があったが、残念ながら途中で電池が切れてしまった。それだけに頂上でのカメラやマイクロ等のセットが完了して最初に真っ青な青空の映像が送られてきた瞬間はどっと歓声が上がった」そうである。

後に、頂上に登った彼らは「送信準備は意外と簡単で順調に完了した」と言うが、実際には1時間近くかかっていた。「気圧や寒さの関係で動作が鈍くなり本人達の感覚ではそうだったのだろう。逆にはらはらしながら遠いキャンプからの画面を見つめている我々には何時間にも感じられた」と作間さんは指摘している。なおネパール国内では日本テレビが提供した方式変換器によってこれらの映像が朝からそのまま放送され、ネパールテレビ放送もNTVという名称なので大変な人気を呼んだとのことである。チョモランマ頂上から世界初のライブ映像を送ったテレビクルーは中村進さんの他に三枝照雄さん、中村省爾さんの3人であった。

チョモランマ頂上からのテレビ中継をあしらった作間さんのカード

[8年前のリベンジ]

日大山岳部OBの中村進さんは日本人で初めてチョモランマ・北極点・南極点の3極点制覇という偉業を達成した他、数々の記録で知られる登山家であり、また多くの優れたドキュメンタリー番組を制作したカメラマンでもある。 以前重さ十数Kgのビデオカメラしかなかった昭和55年に、特別に開発した小型ビデオカメラを使用して今回と同じ岩下莞爾ディレクターと共にチョモランマ登山のドキュメンタリー番組の制作に当っている。

この時は頂上を目前にしながら日没のため頂上直下の高地で一夜を明かし、岩下ディレクターの厳命によって涙を飲んで撤退している。この時撮影した命がけの映像は特別番組「生と死を賭けた36時間」として同年7月16日に放送された。「今回も中村さんは日本テレビのために登頂カメラマンとレポーターを務めてくれた」とのことである。中村さんにとっても岩下さんにとっても8年前のリベンジでもあった。

多くの優れたドキュメンタリー作品を制作した岩下ディレクターはこの5年後に惜しくも他界されたが、次のような言葉を後輩たちに残している。

 

あるがままに撮ろう
あるがままに語ろう
在るものはあると言おう
無いものはないと言おう
無いものを在ると言ってはいけない
在るものを無いと言ってはいけない
もう一度
あるがままに伝えよう
 

「本当に真摯な人でした。 岩下さんの遺言とも言えるこの言葉は、全てのマスコミ関係者、特にニュース・ドキュメンタリー番組の制作に当たる人たちの頭に深く刻み込んでおいて欲しいものです」と作間さんは語っている。

[衛星地上局を建設]

実はこの中継を実施するに当たって、大きな問題が起こっていた。当初、NTVは当時のKDD(国際電信電話会社)を通じて、インド洋上の通信衛星を使用してKuバンド(12.5GHz~18GHz)での送信を計画していた。ところが、その後、イランが同衛星のトランスボンダ(中継機)を抑えてしまい、Kuバンドが使えないことが判明した。

そのころ、イランとイラクは「イラ・イラ戦争」の末期にあり、Kuバンドを軍事に活用するために必要としたのである。やむなく、NTVはCバンド(3.6GHz~6.2GHz)を使うことになったが、そのためには直径20mのパラボラが必要だった。結局、撮影隊のベースキャンプではコンクリートで基礎固めを行った巨大なアンテナ設備を設けることになった。 放送が成功裡に終わった後、当時はココムの規制が厳しかったこともあり小型無線機から巨大なパラボラアンテナに至るまですべての機材を撤収して日本に持ち帰った。 中国に残してきたのはこのコンクリートの基礎だけであった。