[アマチュア無線機が活躍] 

このチョモランマ中継では「アマチュア無線用の機器が登山隊や中継スタッフの連絡用として活躍した」と、作間さんは当時を語る。「棚橋雅明(JA1PUK)さんら社内のハムとやはりハム月販さんが協力してくれた」と言う。当然のことながら、周波数その他すべて中国政府の許可を受けた上で一部改造したアマチュア用の無線機とレピーターを使用した通信設備を現地に設置。

「少ない経費で複数の中間キャンプやマイクロの中継所など広い範囲に散らばっている全員の連絡が確保されていたので安全上非常に心強かった」と言うのが作間さんの記憶である。NTVハムクラブではこの世界初の放送を記念してクラブ局とクラブメンバーの記念QSLカードを製作し多数の局に発送した。

中国登山隊は標高5000mのチベット側ベースキャンプの連絡用無線局にアマチュア局BT0ZMLを併設、多くのJA局とも交信した。そこではNTV中継スタッフの北野正憲(JR1MXT)さんもオペレートしている。作間さんはこの時活躍した中国のオペレーター呉智淵(BY4SZ,BZ4SAA)さんと、5月下旬にカトマンズで開催されたネパール国王夫妻出席の成功祝賀会で始めて対面している。

作間さんはカトマンズでの成功祝賀会で活躍した呉智淵さんと会う

その後、作間さんは「その時に彼と約束した通り故郷の蘇州に帰った呉さんと数回交信しました」と言う。その呉さんはほどなくして日本に留学し、札幌で日本語を学んだ後、滋賀大学に入学、大学院を卒業後結婚して日本国籍を取得し、家族とともに関西に居を構えている。「もちろん、日本のアマチュア無線の免許をもっており、中国のハムとの懸け橋ともなっています」と作間さん。

[NAB視察で出張]

昭和天皇が崩御され、年号が平成と変った元年(1989年)の5月、作間さんはラスベガスで開催されたNAB(全米放送事業者協会)大会の視察に出張することになった。併設される放送機器の展示会は、隔年で開催されているイギリス・ブライトンとスイス・モントルーを凌ぐ世界最大の展示会で活発な商談も行われ全世界から数万人の来場者があり、その内3000人以上は日本人だそうである。作間さんは途中まで民放連の視察団に参加した後、ラスベガスに残って国際会議に出席、さらにニューヨーク支局に立ち寄って帰国した。

NABショーでは最終日の前夜にハムのレセプションがある。「現地で渡されたガイドブックにその告知が出ていることを同行した南海放送の松本純一(JA5AH)さんに教えられた」作間さんはためらうことなく出席する。「NAB大会終了後に米国が主催するNTSCグループ諸国会議に出席のために視察団に別れて居残ったために出席できた」と喜んでいる。

QSLカードを胸に着けていた作間さんに、W6のハムから「以前QSOした」と声をかけられた。「パーティーはドリンク一杯とつまみが無料で、2杯目からは有料になるが、バーテンはすごく濃い水割りをつくってくれた」ことを作間は覚えている。作間さんは平成元年(1989年)から平成3年(1991年)にかけて3回出かけたが「パーティーの参加者は毎回200人くらいだったが日本人の参加は少なかった」と言う。しかし「平成3年(1991年)のパーティーではアメリカに赴任する途中参加したフジテレビの山肩昭夫(JA1IRH)さんにお会いすることができた」そうである。

1991年のNABでのハムレセプションでは山肩さんにお会いした

[急に英語が通じる]

平成元年(1989年)5月、NAB大会の後ニューヨーク支局に立ち寄った作間さんは数年前に新築移転していたニューヨーク市のABCを訪ねた。以前から面識のあったロバート・トーマス技術局長の部屋に入ると壁にQSLカードが張ってあった。「初めて彼がハムだとわかり、どういうわけか急に英語が良く通じるようになり、約束の時間を30分くらいオーバーして話しこんでしまった」と言う。

作間さんは「英語に自信がない」ため、日本人2世でABCのニュースキャスターのファンでもある支局の女性に通訳として同行してもらっていた。その通訳の助けも不要になり、ABCの社屋を出た後「あなた方はお互いがハムであることが分った瞬間から少年の顔になった」と冷やかされたと言う。「しかし彼女もニュースフロアで憧れのニュースキャスターの放送現場に立ち会うことができて大喜びでした」とのことである。その後はトーマスさんは来日のたびに作間さんを訪ねている。

平成3年(1991年)作間さんはNTV常務を退任して日本テレビサービス社長に就任するとともに、民放連や郵政省の外部の役職からも身を引く。日本テレビサービスは住宅展示場経営・番組グッズ販売・各種事業など多角的に日本テレビを支援する100%子会社である。 当時の人気番組「たけしの元気が出るテレビ」のグッズも販売していた。

ある日番組の収録終了後に北野たけしさん以下出演者・スタッフ全員の慰労パーティーを行ったところ、たまたまその日にゲスト出演していた大橋巨泉さんも参加することになった。「ニッケジャズパレード」以来、作間さんが巨泉さんと会うのは30年ぶりであった。

巨泉さんは、当時の技術スタッフのことまでよく覚えており、若いタレントたちに作間さんを紹介し「君らの生まれる前の話だが」と昔のテレビの苦労話を語ってくれたそうである。平成5年(1993年)からはNTVの常勤監査役を平成13年(2001年)まで、経理局顧問を平成15年(2003年)まで歴任。現在はJARL裁定会会長の任にある。

[水晶発振子の裏技]

これまで作間さんの半生について書き続けてきた。そこに書き漏らしたことや作間さん自身が強い思い出として忘れられないこともある。そのいくつかを紹介したい。昭和28年(1953年)免許当時の7MHz帯は電話2波、電信3波のスポット周波数のみの免許。許容誤差は0.01%以下、±700Hz以下であり、当然水晶発振に頼らざるを得ない。しかし、メーカー製の水晶発振子は高価のため「多くのハムは旧日本軍のジャンク品で50円で買えた3MHz台の海軍型水晶発振子を買い、ガラス板とカーボランダムの粉で磨いて3.5MHz台まで周波数を高くし、2逓倍して使用した」と作間さんは言う。

作間さんは「磨き過ぎて周波数が高くなったり、厚さが不均一となり発振しなかったり、失敗を重ねながら自作の受信機でチェックして何とか誤差範囲に収めた」と言う。落成検査時に誤差を指摘された時には「検査官に隠れて分解し水晶片に鼻の脂をちょっと付けると数十Hz下がるなどの高等技術?もあったが使わずに済んだ」と当時の裏技を語ってくれた。

旧陸海軍の水晶片。当時のアマチュアは海軍型を分解し、水晶を研磨して使用した