「昭和9年(1934年)3月8日、私は当時の東京逓信局の係官と一対一の試験を受けた。最初に、事務所で係官を相手にモールス符号による和文と欧文電信の試験を受けた。電信のスピード(電信キーをたたく速度)は、1分間に和文が40語、欧文が60語以上が合格点であった。ついで、机や椅子が積み上げられている倉庫のような部屋に案内され、そこで、法規や学科を受験した。係官はやがて部屋を出てしまわれ、文字どうり一人だけの受験であった。」と森村喬さんは私設無線電信無線電話施設願の資格試験当時を語る。

昭和9年、私設無線電信電話施設免許(左:3月25日付けと、従事者免許(右:4月11日付)で、森村さんのJ2KJは誕生した。

昭和7年(1932年)日本は満州国建国宣言を行い、翌8年にはドイツではヒトラーが首相に就任するなど、世界は第2次世界大戦に向かって進み始めていた。大正5年生まれの森村少年は17才、学習院中等科4年の時であった。森村少年は小さい頃から物を作ることが好きで、いろいろなものに興味を持った。学習院では「伝書鳩部」に属し、東京・麹町の自宅でも伝書鳩を飼育し、一時は30羽まで増やしたことがある。

森村少年は、やがて伝書鳩から無線に興味を移すが、そのきっかけはラジオ雑誌の「無線と実験」に掲載されていた梶井謙一さんの連載もの「無線局製作」であった。さらに、その後、親戚であった島茂雄さん(J2HN=後NHK研究所長、後にソニー勤務)の家を訪問し、アマチュア局を見てその魅力に取付かれてしまい、ハムになる決意をする。

戦前のアマチュア無線家はほとんど例外なしに「鉱石ラジオ」作りから入門しているが、不思議なことに森村さんは「その記憶がない」という。最初から、真空管式のラジオに取り組み、1-V-1(高周波1段低周波1段)受信機を製作し、その後、送信機を作ることになる。

戦前の私設無線局の発展を支えたのは、官庁、企業、学校であったが、学習院の生徒が果たした役割は決して小さくなかった。当時、真空管やトランスなどのラジオ用パーツは高価なものであり一般の学生には高嶺の花であった。比較的、経済的に恵まれている学習院の生徒がラジオ作りや、アマチュア無線に積極的であったのもうなづける。その学習院のアマチュアの無線の基礎を築いたのが森村少年であった。昭和9年の合格は学習院における第一号であり、その後は同級生や下級生が森村少年の指導を受けて受信機作りに興味を持ち、そして次々とハムになっていく。

やがて、これらの『ラジオ少年』達は、昭和13年にGRG(学習院ラジオグループ)を結成し活動は活発となる。短波受信が禁止された太平洋戦争中に中断したが、昭和23年に再結成され、平成元年にはGRG創立50周年の記念誌が発刊されている。