森村さんは昭和9年の3学期の試験が終了した3月2日に「私設無線電信無線電話施設願」を出願し8日に試験、26日に逓信大臣から「J2KJ」のコールサインを与えられ、31日に従事者免許を申請し、4月11日に許可されている。きわめて迅速な認可であり、6月13日には初の交信を行った。

昭和9年6月13日から18日までの森村さんのログ(交信記録)。13日夜から14日朝にかけて海外2局との交信が記されている。

「その日のことは良く覚えている」と森村さんはいう。「学校から3時ごろ帰ってきて、国内局と交信した後、夜の10時から7MHzで初めての海外との交信を始めた。」森村さんは今でもその日のログ(交信記録)を保管している。そこには国内のJ2KA、J2KN、J3ETに次いでVE5HC(カナダ)とOM2AA(グアム島=当時米国の委任統治領)のコールサインが記されている。

この年にはアマチュア無線局数が調べられており、それによると、電信電話は162局、電話6局、受信のみ15局、合計183局である。ちなみにこの内の163局がJARL加盟局である。

わが国の個人無線の歴史は、大正11年に個人の私設実験局として東京にあった「発明研究所」の浜地常康さんが免許を受けたのが最初である。翌12年には安藤研究所の安藤博さんが同様に実験局の免許を取得。13年になると新聞社が無線の有用性に着目して公開実験を重ねるようになる。しかし、個人に初めて短波実験局の免許(アマチュア無線免許)が下りたのは昭和2年3月であり、有坂磐雄(JLYB)さんと、楠本哲秀(JLZB)さんの2人が、それぞれ38m、80mで取得している。次いで、10月には草間貫吉さん(JXAX)らに免許が下りた。

しかし、実際には大正末から若者を中心にアンカバー(不法)で電波を出すケースは増加していた。その中でよく知られている話は、大阪の梶井謙一さんと西宮の笠原功一さんの交信である。ともに、大阪朝日新聞社の中波試験電波を自作の受信機で聞いていたが、笠原さんが「聞いているばかりではつまりません。電波を出して見ようと思うのですが」と言い出し、時間を決めて笠原さんが送信、梶井さんが受信する日々を送る。受信結果は梶井さんから笠原さんあてに電話で知らせる方法がとられた。

その内に、関西地区で井深大さん、草間貫吉さん、谷川譲さんなどが同様なことにチャレンジしていることがわかってきた。そして、お互いに短波での交信も始まった。コールサインは皆それぞれ勝手に決めての交信であった。大正14年(1925年)のことである。

一方、同じ頃関東でも矢木太郎さんらのグループがお互いに交信していたが,それとは別に佐藤昭挙さん、中川国之助さん、斎藤兼蔵さんらのグループがあった。関西より一足早い大正13年といわれているが、定かではない。ただ、この3名のグループは大正14年末に東京逓信局に不法電波として告発される。取り締まる法律は、大正4年に施行された無線電信法であった。

米国など先進諸国では、すでにアマチュア無線制度が確立しており、希望し、資格試験をパスすれば電波を出せた。これらの海外の動きは、それぞれの国の雑誌等を通して日本にも入ってきていた。学生を含む若者達は海外同士の交信を歯がみしながら聞くだけではがまんできなかったといえる。

国内の科学雑誌はラジオ受信機とともに送信機の配線図を掲載するとともに、その製作の仕方を紹介する時代になっていた。ちなみに、大正14年には逓信省岩槻無線局(J1AA)が米国のU6RWと80m(3.5MHz)で交信しており、わが国と海外との初の交信といわれている。