大正15年(1926年)になると、この人達が中心となって37名のメンバーによる「日本アマチュア無線連盟」=JARL=が発足する。アマチュア無線局が許可されていない中での発足であったが、発足に努力した若者は「やっと世界の仲間入りができた」と興奮した。その興奮の勢いをもって、メンバーは世界に向けて発足宣言を英文で打電したが、ほどなくして、各国のハム間で日本での連盟発足のニュースが飛びかった。その祝福の交信を聞きながらメンバーはさらに興奮したという。

逓信省はこの動きに驚き関係者から事情を聞くとともに、免許を与えるための準備を始めたことになる。その意味では、先行した若者の活動は効果を発揮したといえる。ただし、この時の免許条件は関連知識を持っていることはもちろん、履歴や収入も重要な要素となるなど厳しいものであったという。

森村さんが免許を取得した昭和9年前後のアマチュア無線の状況はどうだったのだろう。昭和7年に日赤勤務で、関東支部の杉田倭夫(J1DN)さんがなくなった。わが国のアマチュア無線の草分け的な存在であったが、その死去はわが国の「サイレントキー」(死去)第1号でもあった。翌8年に、妹さんの千代乃さんが倭夫さんの意志を引き継ぐ形で資格を取り(J2IX)わが国初のYL(女性)局となった。

鈴木(旧姓杉田)千代乃さんJ2IXのシャック。兄杉田俊夫氏J1DNの急逝された後、その遺志をついで女性ハム第1号となった。JARL発行「アマチュア無線の歩み」より

さらに、9年には尾台妙子(J2KU)さんが2人目のYL局となる。一方、満州(現在の中国)では現地駐屯の日本軍と現地軍との紛争が増え、やがて太平洋戦争へと向かう「きな臭い」臭いが強まっていた。それに呼応して、ハムが国内各地で「愛国無線通信隊」などを組織し、無線通信の技術を駆使して、国防に貢献するようになった。森村さんが免許を取得したのはこのような時代であった。

昭和12年の秋、一人のドイツ人のハムD4XVFさんが来日し、約3カ月間の日本滞在期間中、多くの日本のハムと交流、森村さんの自宅も訪ねている。D4XVFさんは、その時の思い出をJARLニュースに寄稿し、森村さんのシャンクの立派さに驚いたと、そのシステムを紹介している。「送信機はオールバンドの終段2逓倍増幅器を採用し、音声送信時には数段の音声増幅器を使用する構成である。また、受信機は9球スーパー、6球スーパーの2台あり、米国西海岸の局からの信号が部屋中に響きわたる音量で入ってきた」と記している。

昭和15年には、逗子在住の渡辺泰一(J2JK)さんとの56MHzでの山越え直接波初交信記録を達成する。『15年1月26日午後10時だった』と、森村さんは今でもはっきり記憶している。「約50Kmの距離であり、その間にはいくつかの山があり、見通し距離ではない。二人で時間を決めて挑戦するものの、何日たってもつながらないので無理ではないかと、あきらめかけたこともあった。

「3.5MHzの水晶発振器を使用し、逓倍を重ねて56MHzを出そうと考えたが、そのためにねらった周波数を探すまでが一苦労であった」と振り返る。その時に作った送信機は、現在、JARLの展示室に展示されているが、森村さんは使用したパーツ類の価格のメモを残している。一部を紹介すると、トランスは25V出力品が4円、600V×2出力品が25円、7.5V×2出力品が6円である。「この頃、靴1足の値段が10円でした。」という。いかに、高価な部品であるかがわかる。

森村さん自作の5m帯の受信変換器(JARLの展示室にある)

2人とも東京工大の同級生。その時の様子を、後年になって渡辺さんが「CQ ham radio」に思い出として載せている。「当時、56MHzは2、3のハムが始めており、都内では簡単に交信できた。KJ(森村さん)は100THのP・Pに100TH、B級の変調器がついた送信機。私は3.5MHz水晶を59と2A5で14MHzにし、6L6Gで28MHzに、さらに、807で56MHzとしたガンマトロン54のシングルであった」と、送信機を紹介している。