渡辺さんは、「CQ ham radio」の中で、さらに交信までの苦労を書いている。

「2人で毎日時間を決めて双方から送りあうが、受信できないため、時間をずらしてみたりしたがだめだった。受信の波長が違っているのではと、波長計を交換したりした。東京都内のKJ局は他の56MHz局を受信しており調整は問題ないが、私の方は聞こえる局がないため、周波数が正しいかどうかの不安があった。ついに、受信機を東京に持っていこうと考えているうちに、KJの信号を捕まえることができた。翌日は学校に遅刻したが、数学の授業時間にKJの隣に座って報告。ほどなくして、KJの方も受信に成功し、その後は毎日、どんな時間でも交信できるようになった。」と、記している。森村さんの話では1カ月以上もかかったらしい。初交信の昭和9年から戦争で中断させられた16年までの期間に森村さんの交信国数は80カ国に達していた。

森村さんが戦前に集めたQSLカード。恐らく今では見ることのできないカードが多い。

ここで、森村さんの生い立ちに触れてみたい。「森村」という姓と「学習院」という校名から「あるいは」と想像された人もいると思われるが、森村さんはかって「森村財閥」ともいわれた森村一族の血筋を引いている。現在の日本ガイシ、日本特殊陶業、ノリタケカンパニーリミテド、TOTO、INAXなど有力企業を作り上げたのが森村市左衛門さんを筆頭にした森村家であった。

市左衛門さんは幕末、明治、大正から昭和初期にかけてさまざまな事業を手がけ、失敗、成功を繰り返し、時にどん底の生活を体験しながらこれらの森村グループを作り上げた。また、女子教育にも力を入れ、現在の森村学園を創設し、さらに金融業にも進出し、森村銀行(後に都市銀行に吸収される)を発足させたことでも知られている。

後に、有力企業に育つこれらの森村グループを作り上げるのに海外で貢献した男がもうひとりいた。日本の森村グループの製品を中心に米国に輸入し販売を担当した市左衛門さんの弟である豊(とよ)さんである。「日本の産業立国は輸出にある」との信念をもつ市左衛門さんは豊さんを当時の人材育成、語学教育面で知られていた慶応義塾に入学させる。

明治9年、慶応義塾の福沢諭吉塾長の紹介で渡米することになるが、森村家も裕福ではない。市左衛門さんの奥さんの持ち物を売るなどして資金を作り、豊さんを米国に送り込む。

渡米した豊さんら日本人5人はニューヨークで共同で下宿、豊さんはイーストマン商業学校に3ヶ月通い卒業した。促成教育のように思われるが、当時の米国では短期修業の学校が多く、3ヶ月でも不思議ではなかったらしい。卒業後、日本人3人と共同出資会社「日の出商会」ついで「森村ブラザーズ」を設立し、日本からの輸入販売を始めるが、輸入した衣類、刀剣、古道具、花瓶、蒔絵など何でも売れた。

しかも、日本国内で仕入れた価格の何倍もの価格で売れたという。鎖国を続けていた日本が明治維新により世界に開かれ、それまで未知の国であった日本の骨董品が海外で引く手あまたとなったのは当然だった。しかし、販売代金が米国から日本に送金されてくるまでには時差がある。日本側の仕入れは資金にも困ったが、同時に全国を足繁く回るなど仕入れ(買入れ)業務も大変な仕事になっていった。

森村さんは、後年、TOTC(ザ・オールド・タイマー・クラブ)を結成。時々、ミーティングを開いている。右から三田さん、多田さん、森村さん、矢木さん、渡辺さん、清岡さん。