一方、ニューヨークの豊さんも、予想外に多い利益にうつつを抜かすようなことをしなかった。豊さんは、下宿代を節約するために賃借した狭い売り場スペースに泊り込むなどの苦労を重ねながら、市場作りに成功する。国内では市左衛門さん、米国では豊さんの現在では想像もつかない努力の結果、事業は拡大し社員数も増加していった。明治14、5年には、日米ともに不況に直面するが、これを契機に「森村ブラザーズ」は、それまでの小売・卸販売から卸販売に事業方針を変更する。

明治26年にシカゴで海外の物産を集めた「シカゴ・コロンビア記念万国博覧会」が開かれた。スペインのコロンブスが米国大陸を発見、その400周年を記念したものであった。この会場で、日本の関係者は日本製の陶磁器が欧州製の商品に比較して商品力ではるかに劣っていることを知らされる。

日本国内では市左衛門さんは「森村組」を組織し、陶磁器の絵付け工場を8カ所に持つまでに事業を拡大していたが、これを契機に欧州製に負けない陶磁器作りに全力をあげる。工場を名古屋の西郷工場に集約し、事業の中心を名古屋に移す。この陶磁器事業の強化が、後の森村グループを作り上げることになる。明治32年、日本に帰国していた豊さんは胃がんのため45才でなくなる。

米国滞在23年、太平洋を三等船客として42回も往復した豊さんについて、市左衛門さんは回想記の中で「森村組の事業は実に弟が土台をつくってくれたのであります。弟がいなければ今日のような好結果を見ることはできなかったでしょう」と、太平洋の反対側で事業を成功させた弟の功績に「自分が死ぬよりつらい」と賛辞を述べている。実は森村喬さんはその豊さんの孫に当たる。豊さんのお子さんの内3人が成長され、森村さんはその次女である喜美さんの長男としてニューヨークで生まれ、1才の時には両親とともに日本に戻っている。

この森村市左衛門、豊兄弟を中心とした伝記は、つい3年前(1998年)に砂川幸雄さんが「森村市左衛門の無欲の生涯」として草思社から出版されている。したがって、この森村グループの物語の部分は森村喬さんからお聞きした以外は、多くはこの書を参考にさせていただいている。帰国した喬さんは幼くして、科学や機械に興味を持ったが、同時に、結婚後、奥様に「画商になりたかった」と話されたように、芸術面の才能も豊かだったといえる。

いずれにしても、経済的には恵まれた幼少、少年時代を過ごされたといえそうだ。いつごろかははっきりしないが、ある時、母親が森村さんの欲しがっている真空管を米国から取り寄せようと、米国の森村ブラザース(森村グループの米国法人)に手配したが、行き違いから、あらゆる種類の真空管が大量に送られてきたことがある。その総額は現在の価格に換算すると約600万円にもなるという。その真空管はアマチュア無線の仲間がいくらか持って帰ったが、大半の処分を日本電気(現在のNEC)に依頼したものの、同社もその始末に苦労したらしい。

昭和11年頃、森村氏がB級変調にプッシュプルで使用したSylvania210  JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

昭和11年頃 森村氏が使用したサイモトロンSX-852。主として14MHzで使用。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

半導体の登場により、真空管は姿を消したが、当時は高価なエレクトロニクス用部品であった。

ちなみに現在の「森村グループ」の5社は、資本、経営陣の両面で森村家の影響力はきわめて少ない。5社のそれぞれの連結売上額を合計すると、1兆3000億円弱となり、イナックス、TOTOの両社はトイレ、バス、台所用のいわゆる「水周り住宅用設備機器」を生産。また、日本ガイシ、日本特殊陶業の2社はエレクトロニクス用材料、部品も手がけており、先端産業に参入強化を進めている。

ついでに、森村家とゴルフについても触れておきたい。日本人によって最初に作られたゴルフ場は、大正3年にオープンした東京ゴルフ倶楽部駒沢コースであり、日銀総裁や大蔵大臣を務めた井上準之助さんが中心となって設立された。井上さんに進言したのは、豊さんとともに渡米し、終生親しかった新井領一郎さんであった。新井さん米国では、森村ブラザーズの社員にゴルフを手ほどきし、また、日本国内では昭和天皇の皇太子時代に人を介してゴルフをお勧めした。その関係から、市左衛門さんの次男である開作さんが発起人に名を連ねている。